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中攻誕生の経緯について私が直接関係者に聞いた話によれば、昭和五年頃、山本五十六さんが兵科出身の用兵者でありながら、航空本部の技術部長をやっておられました。どういう経緯で技術部長をやられたのか詳らかではないのですが、その当時、機関科二十四期の佐波次郎さんが、技術部の部員をやっておられました。ある日、山本部長がひょっこりこられて、まことに座談的に「佐波君、海軍のわれわれは飛行機といえば艦上機・艦載機か水上機しか考えないが、海軍でもし陸上機を作ったら、どんなメリットがあるか」という質問をされたそうです。 ご承知の方もあるかと思いますが、佐波次郎さんという方は非常に頭の整理の良い方で、しかも口のなめらかな方です。こういう質問でもあれば、整然と答えられる方でしたので、これに対して佐波さんはかねて考えていたことなので、得たりやおう、と次の通り説明されたそうです。 第一番目は滑走距離の問題で、艦載機・艦上機はどうしても滑走距離に制限がある。ところが陸上機となればまず制限がないに等しい。滑走距離と最高速度との間には一定の関連がある。従って、滑走距離を大きくとれば最高速度も大きくとれるので、飛行機の高速化ができる。 第二は航空母艦への着艦という問題がない。着艦の問題は母艦の甲板の強度、リフトや格納庫の寸法などから、飛行機の重量と寸法に大きな制限を加える。従って、艦上機を考えている限り飛行機の大型化はできない。陸上機であれば、この制限はまったくないので大型化ができ、大型化のすべてのメリットが活用できる。 第三には、陸上であればどんな小さな島でも、必要な滑走距離さえ取れればそれを活用できて、不沈空母を作ることができる。このことで航空機による作戦の範囲は極めて拡大し、航空機の艦隊協力にしても、その範囲が非常に広がる。したがって、陸上機には大変なメリットがあると。これを聞いた山本さんは大変ご満足であったらしいということでした。
その頃、海軍では、航空機は海軍の戦力に大変役に立つひとつの威力として、今後ますます発展するのではないか、という意見が大勢を占めました。この空中威力について、海軍の頭脳を結集して研究を重ねて、その充実を図るための手段を講ずるべきではないかということで、大臣訓令によって用兵者、技術者、製造者、材料屋そのほかの当時の海軍部内の権威者すべてを揃えた空中威力研究会(略称空威研究会)を発足し、月に何回か会合を持ってその研究をやっていたらしい。それに山本さんがただちに陸上機の採用について諮られて、もちろん、何の異議もなく賛同を得て、とりあえず最もシンプルな陸上偵察機の試作を三菱に発注するということになりました。 この結果、三菱ででき上がったのが八試特殊偵察機です。これは兵装を一切除いて、偵察機としてまず試作した。この飛行機の性能が予想以上に良くて、これは行けるということで大変喜んだ。そこで、山本さん自ら搭乗して、公式の試飛行をやった。あらゆる性能をテストして、その結果、大変ご満足で、これはぜひ採用したいということになった。本機の設計主務者が三菱の本庄季郎さんという技師です。この方は東大の航空学科の出身で、大変な秀才ですが、なかなか気骨のある方でもありました。
その八試特偵を攻撃機に改造・発展させて、九六陸攻が誕生しました。九六陸攻は、諸作戦に大変活躍して、昭和十二年八月、世界でも初めてという渡洋爆撃で中支の攻撃を日本内地から実施して、世界の注目を浴びましたが、その戦訓等に照らして、九六陸攻に次に述べるような若干の欠点があることもわかりました。 第一、爆弾、魚雷を機体の外側に装着するため、これを搭載すると空気抵抗が増えて著しくスピードが落ちる。 第二、機銃を引込み式の砲塔形式で装備した結果、空戦の時に砲塔を出すと、これも空気抵抗が増して肝心なスピードが著しく落ちる。したがって、これはスポンソン式銃座にするべきであること。 第三、飛行性能は当時の趨勢からすれば当然遅れているので、これを改善して、兵器の搭載量も増やしたい。 第四、防弾の装備がまったくない。したがって撃たれるとすぐ火がつく。また、貴重な搭乗員の消耗が非常に多い。 これらの大きな欠点を改善するため、次期の中攻の試作が決まりました。これは昭和十二年ごろの話ですが、三菱は、九六陸攻の設計成功の結果に基づき、特命を受けて、九六陸攻を改善した次代の中攻の試作設計を命ぜられました。 九六陸攻に成功した本庄技師が相変わらず設計主務者を命ぜられて、設計を終えた。こ存知のとおり設計についてはまず軍令部から性能要求書が出る。それに基づいて、航本から設計要領書が出る。 この二つに基づいて設計を命ぜられた会社なり、海軍の部署なりが設計するということになっておりました。三菱は設計を完了したので、第一回の設計審査会が三菱において開催されました。
そこで本庄技師は設計主務者でありますから、開会の壁頭、海軍の新しい中攻に対する要求を検討しまして、今度は十分に撃たれ強い中攻を作りたい。その要求を全部満足するためには、どうしても現存の発動機をもってしては双発では馬力が足りない。したがって、新中攻は四発で設計させていただきたいということをまず主張しました。四発であると概略このような飛行機になりますと、黒板にチョークで書いた略図を提示、説明に入ろうとしたところ、会議を支配しておりました某提督が大変な剣幕で、「用兵については軍が決める。三菱は黙って軍の要求仕様書の通り、双発の攻撃機を作ればいいのだ。黒板に書いてある四発の図面は、ただちに消せ」と一喝したそうです。 今、考えてみると、この一瞬は我々の関係した中攻の歴史、もっと大きく言いますと海軍航空の歴史が動いた決定的な一瞬であったと私は思っております。なぜならば、中攻は前の大戦を通じて、最初から最後まで海軍航空の攻撃力の中心でしたが、これが技術的に要求を満足させることができなかった。それをあえて甘受し、その兵器をもって、次代の戦闘要員が闘わなければならなかったことに大変な海軍の悲劇があったと思います。 この原因は、提督がこの説明を受けて、一瞬頭に閃いたことは、恐らく物がすべて2倍になるという観念だったと推量されます。 この場合、最高の衝にある提督ですから、まず頭に閃いたのは、物がすべて2倍になった場合の戦備、生産力、補給、予算、国力、などであったであろうことは、想像に難くないところです。 提督が国家の戦備を考えたのは全く無理のないことだと思いますが、ただ海軍航空の戦備の総帥としては、ここにひとつの包容力と余裕が欲しかったなと、今つくづく残念に思います。
もしも四発式の陸攻ができていたとすれば、次期中攻としての総ての要求性能をほぼ満足することができたと思いますし、個々のエンジンにしましても、当時1,500馬力を二基積んでいたのですが、合計3,000馬力、もしこれが六割増しの4,800馬力で足りるとすれば、1,200馬力のエンジン四基でいいわけです。 こうなりますと、1,500馬力のエンジンと1,200馬力のエンジンとでは、材料工数からして違い、生産コストが違う。しかも、これに付けるプロペラも、1,200馬力用には当時のハミルトンの定速プロペラは3枚羽根で、直径3.4メートルで良かった。1.500馬力になりますとこれが4枚羽根で直径4.2メートル。プロペラの枚数も直径も減る。プロペラの直径が減るということは脚の必要な長さが減る。したがって、脚の強度も楽になる。機体のサイズも、決して四発になったからといって双発の倍にはならない。プロペラの直径のほぼ2倍だけ主翼の全幅は広がる。そのプロペラの直径さえ、4.2メートルが3.4メートルに減るのですから、現行のプロペラの約2倍でなく、新しい小さいプロペラの直径の約2倍だけ幅が広がる。全長はどうかといえば、極端なことを言えば尾翼を大きくすれば全長はそのままでも設計は成り立たないことはない。 機体の生産性は幅が広がればそれに伴っていろいろな問題が出るため、僅かに落ちるとは思います。発動機も台数が増えるという問題はありますが、一台あたりは遥かに作りやすい。プロペラは、当時、ジュラルミンの鍛造で作っていたのですが、直径が僅か0.8メートル大きくなっても鍛造の単価は大体5割増しくらいになるという話を聞いたことがありました。 これは要するに、生産性はわずかに落ちるだろうが、生産のコストに至ってはほとんど変わらないし、何よりも、これをやったために当時、満足ではなかったけれども防弾タンクを積むことができたし、パイロットの背もたれに厚い防盾を着けることができた。これによって非常に火災を起こしにくい、極めて撃たれ強くて攻撃力の大きい中攻ができたのではないか。しかも、火がつかないということになれば、戦闘による機体の消耗も、貴重な搭乗員の消耗も激減する。これ等を考えると、戦備、予算などの増は極めてわずかなもので、消耗が減れば、戦備に要する予算や機材の補充には、逆に余裕さへ出たのではないかとさえ考えられます。 この場合、発動機の数を倍にしたからといって搭乗員の数は九六陸攻の定員7名が、精々一人増えて、定員8名あれば四発の中攻を駆使して、撃たれ強い中攻で戦争することができたのではないか。この四発中攻案のにべもない一蹴は、今考えても非常な痛恨事であります。この一喝の瞬間、中攻、すなわち海軍航空の歴史は決定的に変わってしまったと私は考えております。 この結果の産物である一式陸攻がどうであったか。残念ながら私どもは自虐的に、一式陸攻を一式ライターと呼んだ。撃たれればすぐ火がつく、落ちる。搭乗員の消耗も大変なもので、海軍の攻撃力はこのために漸減していったと、私は考えております。この私の推論が問違いであるか。私は、この推論が恐らく的中していたと思います。
その検証は戦闘機の紫電改に求めたいと思います。ご承知の通り、零戦が大東亜戦争の緒戦で大変な戦果を収めた。ところが、日ならずして敵の戦闘機が落ちなくなってきたし、零戦の消耗が激しくなってきた。そこでいろいろ検討の結果、戦闘機の計画の思想を根本から技術的に考え直す必要に迫られた。つまり、われわれが理想の戦闘機として考えていた零戦は、軽戦闘機です。軽戦闘機は、巴戦に強く、操縦性、特に旋回半径の小さいものでなければならない。そのためには、当時はパイロットが主張していたことなのですが、設計的に翼面荷重100kg/m2を超えては困るということでした。 九六艦戦という引込み脚でない低翼単葉の戦闘機がありました。非常に空戦性能が良くて、支那事変前期に大活躍しました。その翼面荷重が102kg/m2で、100kg/m2を超すのが大変問題になりましたが、時代の趨勢ということで102kg/m2に決まりました。次の零戦が当初の設計は104kg/m2。ところが、発動機や機銃を大きくしたいなどの要求から、どうしても100kg/m2程度では間に合わないということで、初期のものは126kg/m2。最後には発動機が大きくなって148kg/m2になっておりました。 このように、戦闘機は空戦性能を最重視したために、当時、軽戦闘機思想に固執していましたが、技術屋は軽戦闘機の思想から脱出して、重戦闘機の思想にならないと戦闘機の時代の趨勢には勝てないという結論になった。その産物が重戦闘機の紫電、後には紫電改であります。この紫電改の翼面荷貢は170kg/m2。日本の重戦闘機の最たるものだったわけですが、当時、アメリカ軍のグラマンやロッキードの翼面荷重はすでに300kg/m2に達していた。まるで問題にならなかった。これは重武装重防弾装備の結果であった。 そこで、海軍は思い切って重戦闘機の思想を採用した。しかも、重戦闘機の欠点である空戦性能の低下をカバーするために、川西の大変優秀な設計者・菊原静男さんが自動空戦フラップというものを開発した。空戦の時には高揚力装置のフラップを下ろす。そうすると、旋回半径は小さく、揚力は大きくなりますが、機体に非常に大きな荷重が掛かって、機体が破壊される。同時に人間には大きなGが掛かって、人間が参ってしまうということで、その空戦フラップを下ろす角度を飛行機のスピードに応じて変えるという、自動空戦フラップを紫電改に着けた。 同時に、戦闘に当たって人間は緊張または狼狽するとつい大きな舵を引いてしまう。その結果、Gの問題で機体にも人体にも大きな影響が出る。したがって、どんなに大きな舵を引いても、スピードが大きい時は舵が大きく動かないという操縦桿腕比自動調整装置も開発して、この二つの新機構を装備して20ミリ機銃を4挺に増やし、装備弾数を800発(零戦は300)に増やし、紫電改が完成しました。この飛行機の設計は大変な成功で、紫電改は大活躍をしました。
その実績は、昭和二十年三月十九日、アメリカの機動部隊が四国沖から艦載戦闘機200機で呉の空襲に来たのですが、これを四国の上空で三四三空の紫電改が捕捉して、54機で200機を相手に松山の上空で空戦をやった。その結果、アメリカの戦闘機F6Fを48機、SB2Cを4機、合計52機撃墜した。味方は12機を失いましたが、大戦果を挙げた。当時、松山、近隣の人は空戦をやって、落ちて来るのは日本の戦闘機、零戦ということで空を見るのが悲しかったというような情況の下で、当日は、落ちて来るのがなんと皆、アメリカのマークをつけていたというので、皆、夢ではないかとびっくりしたらしい。それほどの大戦果を挙げました。 その後、しばしば機動部隊の出撃を邀撃して、大戦果を挙げました。B−29の攻撃に当たっても、かなり大きな戦果を挙げたということで、零戦の劣勢を急速に挽回することができた。この結果、アメリカはこういう戦闘機ができたらこれは大変だと驚いた。そこで、彼ら独特の情報網を使って、川西が鳴尾と姫路で作っていることを調べあげたものらしく、四月の中旬だったと思いますが、川西の鳴尾と姫路の工場に対してB−29、合計約100機で夜間大空襲を行いました。その空襲に使った爆弾は悉く一トン爆弾。一トン爆弾で絨毯爆撃をやられて、そのために一夜にして川西の両工場は灰塵に帰し、これを最後に、紫電改の生産は一切できなくなった。日本の戦闘機の抵抗も、これを最後にだんだん劣勢になって終戦に至ったということがいえます。
この結果は、確固たる技術的見解に基づいて、その方針を貫くための英知を結集すれば、必ずその要求を満足することができるということの確証だと思います。この結果から見ますと、私のこの四発中攻に関する推論は決して誤りではなくて、恐らく的中したであろうと、私は信じております。同時に、この結果は、「垂直思考」はいかに我々に諸々の物事の処理を誤らせるかということの大変に大きな教訓であると私は思っております。
(終)
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