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 中攻とともに戦った一年 北千島から比島まで
角 信郎
(機51期)

大正十年(1921年)生まれ。海軍機関学校五十一期。昭和16年空母翔鶴乗組ハワイ、珊瑚海、南太平洋海戦に参加、昭和18年32期整備学生、昭和19年3月中攻部隊で各地転戦、昭和20年2月ジェット機橘花開発支援担当。

目次

はじめに

1.北千島に基地開設
2.北海道千歳基地で日々の訓練と哨戒飛行の後方支援
3.北海道美幌基地への移動と戦局の急変により木更津基地へ転任
4.木更津基地よりさらに激戦地比島のクラーク基地へ
5.比島のクラーク基地での死闘と悲劇の日々-レイテ島作戦
6.内地への帰還と仲隊長との別れ
  (付記 攻七〇二飛行隊の壊滅について)
7.木更津基地での更なる悲劇の日々-硫黄島作戦
8.中攻隊よ!さらば

あとがき
付図 クラーク基地周辺の地図

はじめに

昭和18年6月4日、私は開戦以来一年半にわたる空母翔鶴乗艦生活を終えて、6月10日第三十二期飛行機整備学生として追浜海軍航空隊に着任、これより約九ヶ月間航空機整備の勉学に励む事になり、艦船機関科勤務から転科して航空機整備科将校として必要な技術を習得することになった。昭和19年3月より約一年間にわたって中攻(中型陸上攻撃機の略称)の一式陸攻(下記の注参照)と共に北は幌莚島から南は比島と戦場を馳せめぐる事になるとは思いもよらないことであった。整備学生生活もあっと言う間に過ぎて修業間際に一式陸攻担当を命ぜられ、名古屋地区の三菱重工航空機部工場で半月間の実習研修を受けた。

(注)一式陸攻は一式陸上攻撃機の略で、巾20メートル、長さ25メートル、高さ5メートル、燃料6,400リットルを積む双発の陸上機で乗員の定数は8名。長距離を飛行出来ることから遠距離の爆撃、雷撃、索敵哨戒、輸送など多目的に使われてきた飛行機であった。

1.北千島に基地開設

北千島出発前、大湊基地にて

昭和19年3月15日付で第七〇一海軍航空隊附を命ぜられ、3月17日、豊橋基地に着任した。基地では佐藤憲郎海軍大尉(機46期)でヒゲの大尉と言われた七〇一空整備長が待ち受けていた。即日、彼の命令は、「角海軍中尉は先発隊指揮官として部下百数十名を引率して越冬基地幌莚島武蔵基地に進出し、陸攻基地の開設を可及的速やかに完了すべし。」であった。それからの日々は多忙の連続であり、車輌、航空機機材部品から食料、煙草にいたるまでのあらゆる軍需品を特別軍用列車で大湊まで輸送し、それより輸送船により海路目的地に進出することになった。

昭和19年3月23日「第一幌莚基地(武蔵基地)進出ヲ命ズ。」の命により事前打ち合わせのため軍用列車出発より早く主計兵一名を連れて陸路大湊に直行した3月24日大湊に到着、3月25日より4月1日までの8日間に隊員の受け入れ、


輸送船の手配、軍需品の積みこみ、そしてこれらの処理についての大湊要港部との打ち合わせに忙殺された。輸送船は第二新興丸という総トン数2,500トン、最高速力9ノットの商船改造特設砲艦である。

この時、輸送についての最大の問題は第二新興丸の艦長(六十才近くの応召海軍大佐)が船を幌莚島の武蔵基地の外洋沖合に投錨しての荷揚げ作業を拒否したことであった。

岡港で小さな船に積みかえて輸送するよう要求した。片岡港は北千島の占守島と幌莚島との間の海峡にあり、敵潜の攻撃に対して極めて安全な港である、また武蔵基地は幌莚島の南端の岬にあり、正に外洋に突出しているので、敵潜の攻撃の絶好の場所であったことは事実である。

当時、第七〇一航空隊は北東方面艦隊の第十二航空戦隊の指揮下にあり、既に豊橋基地から千歳基地に移動しており、急速に基地の展開が必要であるので、整備長の佐藤大尉に電話で荷揚げ作業にかかわる事情を説明し、北東方面艦隊司令部より「如何なる危険をおかしても武蔵基地沖合に投錨し、急速陸揚げを実施せよ。」との電令を出してもらった。第二新興丸の艦長から見れば、息子のような私がこの様な行動をとったことに、随分生意気な餓鬼だと思われたのではないかと後になって感ぜられた。



隊員による対潜警戒の見張り

4月2日早朝、私達隊員と軍需品を乗せた第二新興丸は大湊を出港した。最初船団を組んで航行し、船団速度三ノットのジグザグ航進であった。第二新興丸は九ノットの速度が出るので、応召の老艦長は独断で船団を離脱し、単独九ノットの速度で最初真東に航行して後、片岡港に向けて北の進路をとった。航行中、隊員により対潜警戒のために二十四時間交代制で見張りを実行した。


途中、偵察飛行のためか、船の上空を往復した敵コンソリデーデットB−24が飛来したのみで、一隻の敵潜水艦にも遭遇しないで無事4月9日に片岡港に到着した。4月13日、夜明け前に片岡港を出港し、武蔵基地の外洋沖合に投錨した。既に空路到着していた佐藤大尉の出迎えを受け、軍需品の荷揚げは、昼間一日で完了せよという至上命令により、その日一日中、小型舟艇のピストン輸送が実施され、途中煙草五十箱入りカートンの百セットを包んだ大きな梱包を海に落とし、あれよ、あれよという間に波間に消えていったというハプニングがあったが、無事暗くなる前に荷揚げを完了することが出来た。

第二新興丸は外洋沖合に投錨のまま一夜を仮泊、4月14日早朝にその姿を消した。思えば、無事荷揚げできたことはせめてもの第二新興丸の老艦長への贈り物であったのではないかと思っている。第二新興丸は終戦の直前北海道西岸沖合で敵潜水艦に撃沈されたと聞く。あの老艦長の消息は残念ながら今なお不明である。



防寒服を着用 庁舎入口

 4月13日、北の果第一幌莚基地(武蔵基地)に上陸した。当時当基地は極寒の冬を越し越した数十名の越冬隊員によって維持管理されていた。

いよいよ長い冬が終わり米国の反攻が予想される昭和19年4月となり、我々先発隊により緊急人員資材を増強して陸攻基地開設に全力を傾倒する事になったが、北千島の四月はいまだ積雪多く滑走路は常に雪に覆われ、除雪自動車によって毎日滑走路上の除雪作業を実行しなければならなかった。



滑走路上で作業中の除雪自動車

基地内の宿舎となっている基地庁舎も雪の中に埋まっている。窓から手を出せば直ぐ雪を掴むことが出来るほど雪に覆われているが、窓は二重硝子戸であり室内は石炭ストーブのおかげで極めて温かい。多忙な毎日の基地開設作業の合間のある日、基地の近くの川で鮭の大群が産卵のため川を遡っていると言うのでその川に出掛けた。驚いたことに川の水よりも遡る鮭の方が多いのではないかと思う程であった。この時に捕ったばかりの鮭からとれた筋子と窓の外の雪の中で冷やしたピールとで舌鼓をうった事は未だに忘れられない。幌莚島武蔵基地の陸攻展開が終わって間もなく5月2日、北海道千歳基地へ陸攻で空路戻ってきた。


2.北海道千歳基地で日々の訓練と哨戒飛行の後方支援

私は昭和19年5月1日付海軍大尉に進級し、5月15日付をもって第七〇一海軍航空隊整備分隊長に補せられた。千歳基地 に於いて一式陸攻の充足受入と飛行訓練の整備支援を含む作業に忙殺されていた。さらに北方海域への洋上哨戒飛行任務に就いた攻撃第七〇二飛行隊の後方支援に当たっていた。ときあたかも空地分離の組織編成替[下記の(注)参照]の最中にあり、第七〇一海軍航空隊の千歳基地の整備分隊長として後方支援業務に全力を投球していた。その時の印象に残る重大事件2件について語ることにします。

第一の事件は哨戒飛行の一式陸攻墜落事故の緊急救援出動の事件でした。当時、一式陸攻による北海道東方海上の敵情偵察飛行が常時実施されていました。

6月17日、突如北海道襟裳岬の突端の山腹に千歳基地に偵察飛行から帰還中の一式陸攻一機が激突して墜落したという急電が入った。現地において唯一人のみ助かった搭乗員からの電話連絡であった。 翌朝、私が救援隊長を命ぜられ、救援隊を編成し、数台の車両で千歳基地より出発した。

途中、襟裳岬までの当時荒れ果てた海岸道路をひた走り、岬突端の墜落現場に到着した。墜落した一式陸攻は襟裳岬の山腹を滑るように衝突しており、殆ど原型を留めていましたが、対潜用に使用する60キロ爆弾一個が機体の吊下金具からその爆弾の先端が外れ、斜めに落下しており、先端の信管の安全栓のねじが外れかかっていた。私は隊員を避退させ、私一人で爆弾の近くに行き爆弾の安全栓のねじをゆっくりと元に戻すように回したことを今でも鮮明に覚えています。忘れる事の出来ない一瞬でした。その後、爆弾の信管を取り外して爆弾を山の上から落としたり、搭載された重要機器を外したりして、自動車に積み込み、無事作業を完了し、千歳基地に帰還した思い出は忘れることは出来ない。そして、数日間ではありましたが、襟裳岬の東北部にある広尾村(現在の広尾町)に滞在した。戦時中で、当時はまだ日本の最果ての地であった広尾村の住民の心温まるもてなしを受けた事も今なお忘れておりません。

次の第二の事件は一式陸攻の連続事故発生に関する事件でした。昭和19年はいよいよ米国による日本攻勢はますます激しく太平洋を越えて、比島上陸が近づいていたけれども、千歳基地周辺は広大な原野が広がっており、北海道の夏は酷暑ではなく心地よい日が続いていた。その中で一式陸攻の訓練飛行と哨戒飛行が続けられていた。その時期にたびたび事故が発生し、哨戒飛行に出て原因不明のまま未帰還になったり、航空エンジンが不調になり不時着したりした一式陸攻が数機発生していた。7月になって千歳基地の予備飛行場であった第2千歳飛行場に原因不明のエンジン停止で緊急着陸した一式陸攻があった。私は緊急に飛行場に行き現地で不調になったエンジンを取り外し、その場で原因追求のため分解した。当時の空冷の星型航空エンジンの各シリンダには点火プラグが2個ずつ取り付けられており、その点火用マグネトーは2台取付けられており、エンジンより歯車を通じて駆動されて、それぞれ各シリンダの2個の点火プラグに送電される構造になっていた。その駆動部分を分解したところ、2台の点火用マグネトーを動かすエンジンと接続される1本の駆動軸が折損していたことが発見された。直ちに横須賀の海軍航空技術廠に連絡のうえ、担当の技術大尉が千歳基地に到着し、事故調査会を開き、この不良の駆動軸の原因追求と対策を検討したことがあった。その後の対策については私の担当ではなく、私の任務は次の千歳基地から美幌基地への移動と基地建設に移っていた。


(注)空地分離の組織編成替とは

かねてより懸案であった航空部隊の大改編、空地分離方式の編成替えが昭和19年3月1日に発令された。この方法は航空隊と飛行隊を分離し、飛行隊は戦、攻、爆など機種別飛行隊に改め、中攻の場合は攻撃第七〇二飛行隊というように呼び、飛行隊は飛行隊長を指揮官とし、搭乗員、機材、それと少数の整備員を配置する。航空隊は従来の航空隊から飛行機隊だけを除いたすべての部門を持ち、司令がこれを指揮して配備基地を定められる。各飛行隊は、命ぜられた配備基地の航空隊に編入され、その基地の航空隊司令の命を受けて作戦する、というものである。この改編の狙いは、飛行隊が戦況に応じてどこの基地にでも随時転進し、その基地にある航空隊司令の命を受けて作戦する、という作戦に応じて飛行隊が身軽に敏速な行動が出来る組織変更であった。

第七〇一海軍航空隊は昭和19年4月1日に編成替えが実施され、下記の人事発令がなされていた。

第七〇一海軍航空隊 司令 山田豊大佐
飛行長 中村友男少佐
攻撃第七〇二飛行隊 隊長 小幡博夫大尉

まさに、この空地分離方式の編成替えの最中に、私は北千島から千歳基地に帰還したのである。そして、6月になり飛行隊の隊長人事が下記のように発令され交代された。

攻撃第七〇二飛行隊 隊長 仲斉治大尉 (小幡博夫大尉 退任)


3.北海道美幌基地への移動と戦局の急変により木更津基地へ転任



攻撃第七〇二飛行隊長 
仲斉治大尉

激変する戦局の中で、攻撃第七〇二飛行隊長仲大尉(兵66期)との出会いが私の運命を決めることになり、現在の私の人生があることについて、仲隊長からの最大の恩義を忘れることは出来ません。5尺8寸の長身、中村敦夫ばりの男前、独身のまま透徹した先見性、豊かな人間性をもった短い生涯を閉じられた。隊長の比島作戦における最後については後述します。

昭和19年7月になって、千歳基地に展開のしていた中攻部隊を美幌基地への移動することに決定され、私は8月2日に空路美幌基地に到着した。それからは正に南方の島々では風雲急を告げている時であり、航空部隊の充足が急務となったため、増強される一式陸攻の受入と訓練飛行の整備支援に全力を投球する日々であった。


同時に防空壕建設などの基地建設などに忙殺されることになった。当時、美幌基地は新しい基地であり、基地としては設備が未完成であった。さらに防空体制の準備不足があり、その対応に全力を挙げて対応した。

昭和19年9月になってトップレベルの組織の人事変更が実施されることになり、下記の陣容が発令されたのである。

第七〇一海軍航空隊 
司令  :木田達彦大佐 (山田豊大佐 9月9日退任)
整備主任:杉田忠滋大尉 (佐藤憲郎大尉 9月10日退任) 

新しい体制の下、一式陸攻の充足と飛行訓練を続けて搭乗員の練度向上に全力を続けた。満足できる状態には達しなかったけれども、昭和19年後半期の戦局の急展開で遂に米軍が比島攻略のため、10月になって強力なアメリカ機動艦隊が進出し、その航空部隊が台湾、沖縄方面の攻撃を開始したので急遽攻撃第七〇二飛行隊の一式陸攻全機の南方進出の命令が下ったのである。

移動に伴い、攻撃第七〇二飛行隊は木更津基地の第七五二航空隊の所属となった。同時に、私自身は10月10日付で攻撃第七〇二飛行隊整備支援の任務を命ぜられ、第七五二空整備分隊長に補せられ、10月12日に空路木更津基地に到着した。

4.木更津基地よりさらに激戦地比島のクラーク基地へ


比島北部中心部の地図

既に南方に進出していた主力中攻隊の攻撃第七〇三飛行隊が台湾沖航空戦であっという間に消滅し、攻撃第七〇二飛行隊は比島のクラーク基地へ急遽進出の命令が下されていた。私は木更津基地の第七五二航空隊整備分隊長に着任早々、攻撃第七〇二飛行隊仲隊長からの要請により、比島の戦局の急変に伴って南下を命ぜられた攻撃第七〇二飛行隊に同行することになった。

進出する一式陸攻は約50機であり、数回に分けて進出することになった。急な進出であり、準備期間もなく、慌ただしい出立となってしまった。先発の第1陣は10月16日午後に仲隊長以下第1陣として1トン魚雷を抱えた16機の一式陸攻が木更津より鹿屋に向けて離陸していった。21日に鹿野大尉以下第2陣は8機の一式陸攻が出発し、第1陣と第2陣は台湾の高雄基地に集結し、23日高雄を出発してクラーク中飛行場に到着していた。そして私を含めた第3陣は22日に5機の一式陸攻が木更津発、


23日鹿屋発、24日高雄発、その日の夕刻にクラーク中飛行場に到着した。その後旬日を経ずして残りの一式陸攻が逐次到着した。

この移動の最中にマッカーサー将軍の率いる米軍 によるレイテ島への攻撃が10月17日から始まり、続々上陸部隊を送り込んできた。

そして18日に日本海軍は捷一号作戦が発動されたのである。20日には、敵米軍はレイテ島に上陸を開始した。その後一カ月間に亘ってレイテ島に侵攻してきた米軍との激烈な戦闘の中を過ごす事になった。

5.比島のクラーク基地での死闘と悲劇の日々-レイテ島作戦
  
(注)巻末の付図 クラーク基地周辺の地図を参照されたい。



ストッチェンバーグの宿舎
(根本正良氏所蔵)

ここでいよいよ比島の激戦地での戦いが始まった。クラーク基地は、マニラから北方約80 キロにあって、近くにマバラカット、バンバンといった街があり、戦前からのクラーク基地群を中心にして多数の米軍の飛行場があり、近くにストッチェンバーグという兵舎地帯がある。飛行場は比島中央に広大なバンバンガ平野の平坦地があって、バンバン、マバラカット東、マバラカット西、クラーク北、クラーク中、クラーク南、マルコットなど、多数の飛行場群から成り立っていた。戦時中もともとこのクラーク基地群は陸軍の飛行場であったが、昭和19年7月、捷号作戦の開始で比島の航空戦力増強のため海軍航空隊がクラーク基地を使用することになっており、近くのストッチェンバーグの兵舎が到着した攻撃第七〇二飛行隊の宿舎となった。



私がクラーク基地に到着した10月24の当日から激烈な死闘が始まったのである。
その前日に到着した仲隊長以下第1陣第2陣の到着した全機に対して夜明け前よりレイテ島に総攻撃をかける予定で準備を始めていた。基地の状況も分からず、燃料搭載でガソリン車の準備など多忙を極めていた。しかし、夜が明けた頃、突如「敵空襲の算大なり」とのことで攻撃中止、「即時空中退避せよ」の命が出て、クラーク基地周辺の飛行場アパリ、ラオアグ、ツゲガラオ、バンバン等に分散して直ちに避退せよとの命令が下った。クラーク基地に分散して駐機した一式陸攻にはジャングルから木を切って多い葉のある木で翼を蔽ってカモフラージュに全力を挙げていた。暑い場所だから直ぐ葉が黄変するので絶えず新鮮な葉に取り替えるように指示され、隠蔽にも全力を挙げていた。

戦場に着いた10月24日は比島各地の日本軍の拠点に対して米国戦闘機群の攻撃を受けていた。その攻撃されている最中での空中退避であったため、退避した一式陸攻は8機であったが、うち6機の一式陸攻が撃墜されてしまった。その中には私の海機同期生で偵察搭乗員として機長となっていた広瀬日出男大尉が含まれていた。攻撃第七〇二飛行隊は進出した第一日にして戦わずして6機を無為に失っていたのである。まさにこの日が悲劇の始まりであった。

10月26日になってクラーク基地に進出して始めて一式陸攻による米軍の上陸地点への攻撃命令が下った。レイテ湾内艦船雷撃のため雷撃機5機、タクロバン高高度爆撃のため爆撃機4機が午後に発進したが、雷撃機は隊長機を除く4機が未帰還、隊長機は満身創痍で大破、電信員被弾重傷となり、翌朝出血多量で病室で戦死された。戦果は艦形不詳1隻轟沈と報告された。爆撃機は1機被弾不時着大破(一ヶ月後搭乗員のみ帰還)他の3機は無事帰投した。この日は一式陸攻6機喪失した。

10月27日に大きな悲劇が起きた。攻撃第七〇二飛行隊の雷撃機4機の出動命令が出て、午後5時整列し、発進した。しかし間もなく天候不良で引返す電があり8時半全機帰投してきた。夜設のカンテラのまたたく一,二番機は順調に着陸したが、三番機と四番機の間隔が余りに近く、その上四番機がややオーバー気味に接地したため、三番機がエンドでUターンした直後に四番機が突っ込み、双方の右翼端が接触し、小さな火の手が上がり、あっという間に両機は火焔に包まれ、搭載された魚雷の誘爆による大爆発が起き、クラーク基地内に大きな爆発音が轟いていた。搭乗員は全員脱出したけれども、三番機の電信員で責任感の強い一等飛行兵曹が最高機密とされていた暗号書を機内に置き忘れたのに気付き機内に引返したため、この爆発による唯一の犠牲者を出してしまった。ここでまた、貴重な飛行機と魚雷の2機分を失ってしまったのである。

10月28日、即時待機していたが、夕刻6時雷撃4機、爆撃5機のみが出動したが、敵を発見出来ず帰投した。クラーク基地に到着以来戦死行方不明あわせて、111名の搭乗員を失った事になった。そして、故国のラジオ放送から関行男大尉の率いる神風特攻敷島隊の発表を聞いた。三日前の25日に同じクラーク基地にあるマバラカット飛行場より発進したのである。私は一年前の夏に土浦海軍航空隊で飛行訓練を受けている時に偶々関大尉と面識となり、親しくお話をしたことを思い出し、思わず襟を正した事があった。

10月29日、早朝より可動の一式陸攻全機に雷装して出撃準備を完了していたが、クラーク基地に対し午前8時半過ぎより敵艦上戦闘機20数機来襲、続けて艦爆22機来襲、さらに午後敵戦闘機の襲撃を受けた。空母6隻の機動艦隊からの攻撃であるという情報が入った。投下された爆弾や地上への銃撃により数機の飛行機が焼かれたり、兵舎や車が焼かれたり、そして飛行場にいた3名の搭乗員を含む数十人の隊員が亡くなってしまった。この日も午後1時半雷撃に向かったが、天候不良のため午後10時に全機引返した。

10月30日、電信連絡によれば、前日のクラーク基地周辺の飛行場群に来襲した敵艦上戦闘機はグラマン機を主体とした延155機で、来襲した航空母艦は6隻であった。味方戦闘機により43機撃墜し、特攻機により空母4隻を炎上せしめたという。翌日の31日早朝の黎明攻撃の準備をして待機した。

10月31日、攻撃取止めとなり、空襲もなかった。本部で作戦会議を実施することになり、分隊長、中隊長以上の生存者が集合された。

11月1日、レイテ湾に終結している十数隻の敵艦隊と上陸の船団群への攻撃のため、午前5時に6機の一式陸攻が離陸発進したが、2機は帰還せず、2機は不時着機体大破、そして2機は敵戦艦を爆撃撃破した。一式陸攻がクラーク基地に約50機到着してから旬日を経ずして早くも残存5機になってしまった。

11月2日、空襲のない日が続いて平穏であったが、夜10時タクロバン爆撃のため一式陸攻2機発進

11月3日、タクロバン爆撃から帰還した1機は午前5時、他の1機は午前7時に帰還できた。午後5時半兵舎の前で明治節の遥拝式のため、士官は短剣着用整列して北天に拝礼した。再び夜10時タクロバン爆撃のため一式陸攻4機発進

11月4日、タクロバン爆撃から帰還したのは3機で1機は未帰還となった。夜再び爆撃のため一式陸攻4機発進

11月5日、再び敵戦闘機と艦爆機による大編隊がクラーク基地周辺に攻撃してきた。銃撃と爆弾で多くの場所で黒煙と赤焔が渦巻き、銃撃音と爆発音が鳴り響いた。基地内にいた隊員達は急遽駈足で防空壕やタコツボに入って難を避ける。さらに間隙を狙って飛行場から山の方に駈足で逃れて行った。空襲後、夜になっても時限爆弾が突如爆発して大音響が発した。また、隊舎から出た火災が草原に燃え移って夜空を焦がしていた。その夜に夜10時に一式陸攻3機が雷撃で発進した。しかし2機はエンジン不調で早めに引返したが、1機は攻撃に行き、6日午前4時半帰着予定の電信が入っていたが、その時間帯に敵の夜間戦闘機が2機飛んでいた。帰還した1機は敵夜戦の存在を知らずに、夜間着陸のためオルジスで発火信号を出していたため、発見されて撃墜されてしまった。

私はこの空襲を知ることも無く、クラークからマニラに向けて軍需品の交渉のためマニラ定期便の乗用車で出発した。既に幹線道路沿線にゲリラが出没しており、途中停止することは極めて危険であり、片手にピストル、片手に軍刀と緊張の連続で往復の道路を突っ走った。マニラにある海軍補給処に到着し業務を終えて一泊した。すでにマニラ湾内に対する米軍の攻撃は激しく、湾内にあった軍艦那智をはじめレイテに行く輸送船団が多く雷爆撃を受けて撃沈されていた。

11月6日、私は再び定期便の乗用車でマニラを発ち午後にクラークに帰着したが、この日も大空襲の中であった。午前8時から午後3時までにわたって敵艦爆の大群で延べ220機が来襲し、焼夷弾、時限爆弾、銃撃など多彩な攻撃でクラーク一帯は地獄絵そのものであった。我方戦闘機35機迎撃し、敵戦闘機7機撃破したが、損害 自爆未帰還6機、炎上零戦8機天山7機陸攻1機彗星2機であった。

11月7日、早朝に全員避退の命令が下り、仲隊長以下弁当、缶詰、シロップ等を持って山に逃れた。レガスピーに敵上陸の気配ありとのことであったが、我が攻撃第七〇二飛行隊の一式陸攻実動機は1機も無く、実働搭乗員ペアは5組という惨状であり、何も為すすべも無い状況となっていた。

この7日以降は残った搭乗員、地上員は毎日飛行場から西方の丘の上の宿舎へ昼間の敵機の攻撃を避けるため夜明けとともに山に退避し、日暮れとともに宿舎に戻る日課となった。かくして攻七〇二飛行隊は壊滅状態になってしまった。

11月8日、2度避退命令が出たが、空襲なし。夕刻に陸軍の二式戦2戦隊70機が到着した。

11月9日、11月10日、続けて雨であり、空襲なし。

11月になって、攻七〇二飛行隊に同行した七五二空の幹部に対して木更津基地への帰還命令があったので、七五二空の副長と整備分隊長である私が木更津に帰還することになった。輸送機の便を待っていた七五二空副長とともに帰隊することになった。副長は急遽11月10日木更津に向けてクラーク基地を出発したが、私は仲隊長から後方業務支援のためしばらく残るよう要請され、居残ることになった。

11日、12日 空襲なし。13日、14日 続けて午前から午後に通じて何回もクラーク基地群に敵艦載機が大挙して攻撃してきた。我方戦闘機群との戦いと敵艦載機の爆弾と銃撃で地上にあった他の部隊の航空機が多数破壊された。 

15日、空襲なし。


6.内地への帰還と仲隊長との別れ
  
(付記 攻七〇二飛行隊の壊滅について)


11月16日、空襲なし。午後12時半に総員集合があり、仲隊長より「攻七〇二飛行隊は攻七〇二の一部と攻七〇四の残党とを合わせて七五二空を離れて七六三空の指揮下に入ることになった。」との宣告があった。そして仲隊長より私に対して七五二空の原隊復帰により木更津基地への帰還の許可が下りた。私はクラーク基地より内地への輸送機の便を待つことになった。

17日、18日 空襲なし。

19日、朝早くから、また敵艦載機が大挙して攻撃してきた。午後も夕方にかけて5回来襲し、銃撃とロケット砲、そして焼夷カードと小型爆弾と多彩な攻撃をして行く。絶えず轟音が鳴り響いた。

20日、21日 空襲なし。

ようやく輸送航空隊の便が決まり、私は11月22日の未明午前3時頃零式輸送機に乗ってクラーク基地を後にした。この時、仲隊長よりしばらく残るようにとの要請の言葉が私の命を救うことになろうとは知る由もなかった。台湾高雄、九州鹿屋を経て木更津基地に到着したのは11月24日であった。
驚いたことに先に帰還した筈の副長が見当たらず途中行方不明のままという。人間の運命の不可思議を信じないわけにはいかなかった。
仲隊長は僅かに残った搭乗員を空路脱出せしめ、飛行隊のすべての後始末をつけ昭和20年1月10日最後の一式陸攻で脱出されたけれども、そのままバシー海峡上で消息を絶たれた。仲隊長の一言で現在の私が存在している事を思えば、隊長への感謝の気持ちは生涯忘れられない。攻七〇二仲飛行隊長は戦死した多くの部下搭乗員の後を追ってゆかれたのかもしれないけれども、真に惜しむべき人材を失ったと思う。

<付記 攻七〇二飛行隊の壊滅について>

これは根本正良氏(下記の注参照)が調査され、投稿された中攻別冊(第37号別冊 平成6年3月1日発行)の「攻撃第702飛行隊仲斉治隊長を偲ぶ」の記事の一部を下記に転記します。

(注)根本正良氏は飛予13期ご出身の搭乗員
  (末尾のあとがきを参照されたい)

攻七〇二飛行隊が創設以来、昭和19年9月1日までに在籍、着任した隊員で実戦に参加し、終戦まで生存していた者は調査し得た資料では下記の如くなっている。
(未発見の資料が多いのでこの生存者数は実際にはより少ないと思われる。)

人数/種別

操縦

偵察

電信

搭整

射整

合計

生存者数/総数

14/82

15/76

20/76

10/49

14/38

73/321

攻七〇二飛行隊の壊滅したのは米軍来攻に伴う比島レイテ作戦である。
昭和19年3月末から寒冷と濃霧に悩まされながら哨戒を主に北方警備に当たる傍ら猛訓練を行ってきた攻七〇二飛行隊は南方戦局の急変に伴い急遽南下を命ぜられ、10月22日第1陣24機、最終的に約50機の一式陸攻がクラーク基地に進出したが、彼我戦力の格差甚だしく旬日にしてマレー沖海戦以来のベテランを含め大半を失い、空襲により残存機も焼失、11月15日を以って一旦解隊。七五二空から七六三空の所属に転ずることになり、僅かな残余搭乗員は内地転属となった。

レイテ島を奪取した米軍はルソン島を目指し北上、リンガエン上陸に及び、昭和20年1月8日比島所在の第一航空艦隊(1AF)、第二航空艦隊(2AF)は共に残留搭乗員の総引揚げを命じ、一方整備員等地上勤務者を陸戦隊に編成、七六三空を「翼なき航空隊」として武器も食糧すらない状況で玉砕覚悟の地上戦に当たることになった。事実、彼等は一部米軍に収容されたものを除き、全員玉砕と発表されている。
かかる悲惨、しかも切迫した状況下にあって仲隊長はすべてに始末をつけた上で脱出されたが、永遠に消息を絶たれた。今にして思うとなぜかこのような状況の下で、隊長が愛惜した多くの戦没隊員の後を追われたような気がしてならないと根本正良氏はこの「攻撃第702飛行隊仲斉治隊長を偲ぶ」の記事に述べられている。


7.木更津基地での更なる悲劇の日々−硫黄島作戦  


私は11月22日にクラーク基地を離れ木更津基地に到着したのは24日であった。
直ちに木更津基地の第七五二空の整備分隊長として中攻部隊の後方支援に従事したが、既にB−29による空襲が始まっており、木更津基地内外に拡張される誘導路と掩体壕の建設にともなって必要な通信設備や連絡車両などの準備等に日夜翻弄されることになった。

木更津基地所属の飛行隊は新しく編成し直した攻撃七〇四飛行隊であり、奥田一男大尉(飛行予備5期出身)が飛行隊長となって、攻七〇二と攻七〇三の残党を加えて設立された飛行隊であり、日本本土の東方と南方洋上からの敵攻撃から本土を守るための任務を持つ第三航空艦隊(3AF)の指揮下にあった。飛行隊は12月の後半に霞ヶ浦基地に移動して最後の仕上げの猛訓練を連日実施し、昭和20年1月2日に木更津基地に戻った。3日に数群の敵機動艦隊が数百機を以って台湾、沖縄を襲って来た。そして遂に5日に硫黄島に米巡洋艦3隻、駆逐艦4隻が来襲、艦砲射撃を加えているとの電信が入った。

しかし、悲劇はその直後から始まった。それは日本本土の南方洋上にある硫黄島を守備範囲とする第三航空艦隊(3AF)は黙視し得ず、1月5日早朝急遽飛行隊に対して攻撃隊発進を命じてきた。奥田隊長は自ら先頭に立って一式陸攻10機を以って硫黄島に艦砲射撃を加えている敵艦隊に対する薄暮雷撃に出動した。しかし遂に全機が還らないという悲運を受けることになった。当日基地上空は快晴であったが太平洋上は偏西風が特に強く、其の悪天候を強行突破したため機位を失い帰路求めている内、燃料切れと共に全機が海に歿したのであった。現在のようにコンピュータ等を利用する進んだ技術では想像も出来ないが、天候予測も位置測定も極めて未熟な当時においては、一面空と海の洋上を、しかも悪天候、夜間に二千数百キロを航行することは極めて難しかったのである。この10機の損失で一気に80名の搭乗員、緒戦以来のベテランの歴戦の士を含め、猛訓練を重ねてきた彼等を失ったことは大きな衝撃であり、最大の悲劇であった.

1月 5日 硫黄島攻撃 損失機数   10機 人員80名

攻撃七〇四飛行隊は新たに支那事変渡洋爆撃以来のベテラン松丸三郎大尉を隊長に迎え、人員機材を補充して再建にかかり休日なしの猛訓練にはいったが、引き続き次の不運な事故が相次いで発生した。

1月12日 試験飛行中墜落      1機 12名(同乗者含む)
1月15日 夜間定着訓練中墜落    1機 13名(同乗者含む)
1月17日 襲撃運動中に事故     2機 3名

さらに、1月25日、26日、27日と連続不時着事故が発生、人命こそ失われなかったが、一式陸攻の機体は大破した。

遂に連続して起きた不運な事故を大変案じた第七五二空司令の菊岡大佐は2月1日に基地の修祓式を行い第三航空艦隊長官、各司令以下参列の下で神主によりお祓いが行われたのであった。にもかかわらず、2月になって下記のような一式陸攻による移動訓練で移動中の空中衝突事故と硫黄島への強行輸送での自爆という大惨事が連続して発生してしまった。

2月 9日大分基地異動中3機接触墜落 3機 39名(同乗者含む)

2月10日 硫黄島強行輸送作戦自爆   2機 46名(同乗者含む)

昭和20年になって2ヶ月間に、硫黄島作戦開始以後の中攻の被害は大きく、一式陸攻20機以上、有能な搭乗員を含めて200名に達する人員を失ってしまった。しかし、戦況は米軍からの硫黄島上陸作戦がまさに始まろうとしていた。


8.中攻隊よ!さらば


このように昭和20年になってからの木更津基地における連続の大悲劇を受けていた最中に突如、私は昭和20年2月1日付で横須賀海軍航空隊附兼海軍航空技術廠附を命ぜられた。2月12日、遂にあの懐かしい葉巻スタイルの一式陸上攻撃機の中攻と別れを告げ、死闘の中をくぐり抜けて生きながらえた一年を振り返りながら、新任務の特攻機となるジェット機橘花開発支援のため、木更津基地から横須賀航空隊に着任した。

約一年間にわたって中攻とともに北は幌莚島武蔵基地から南は比島クラーク基地までを馳せ巡り、最後には木更津基地における戦いという体験は僅か一年間とはいえ私の生涯を通して忘れることの出来ない長くて厳しい道程であった。仲飛行隊長をはじめとする戦没された多くの搭乗員および整備員等地上勤務者に対し当時を偲びながらご冥福を切に祈り上げます。

あとがき


この度作成しました「中攻とともに戦った一年 北千島から比島まで」の記録について私一人の僅かなメモや遠い昔の記憶だけでまとめる事は非常に困難でしたので、当時、共に戦い、生き抜いた戦友の貴重な日記やお手紙の内容を多く加えさせて頂きました。中でも比島で共に戦った攻七〇二飛行隊の搭乗員であって奇跡と言っても過言ではなく生き抜かれた根本正良海軍中尉(飛行予備13期)からの貴重なる記録やお手紙の内容を付け加えさせて頂きました。しかし、根本正良氏は戦後中攻会の幹事として長期に亘り会の運営に貢献されましたが、残念ながら、平成14年8月29日に逝去されました。深くお悔やみ申し上げ、心からご冥福をお祈りいたします。

根本正良氏は一式陸攻の偵察搭乗員で機長として昭和19年10月より12月にかけての比島作戦で生抜かれただけではなく、昭和20年1月から始まった硫黄島作戦においても2月と3月にかけて木更津基地より硫黄島を攻撃する敵艦船等への爆撃に何回も出撃されたにも拘らず、最後まで生き抜かれ、幸運と努力による最大の恩恵を受けられた方であった。

また戦後になって、根本正良氏は硫黄島作戦に関わったことから長年に亘って硫黄島玉砕で亡くなられた多数の戦没者のご遺族の方々のために作られた福島県硫黄島協会の代表を勤められ、同時に、協会で会員の方の戦争と戦後の体験を記録として綴られた立派な会誌を『遠き島かげ』という名称をつけて、平成8年から平成14年までに7冊の会誌発行の責任者でありました。

戦後六十年が過ぎ、忌まわしい戦争の記憶も忘れられようとしている。戦後に生まれた人たちにとっては無縁のことのように思えるが、あの時代を生き抜いた人達によって残された記録を少しでも多くの日本人に読んで頂きたい。このように戦争末期に比島と硫黄島において想像を絶する死闘と悲劇の上で亡くなった非常に多くの戦没者を出したこと思う度に、二度と戦争を起こしてはならないとの堅い決意を新たにするものであります。

終わり


付図 クラーク基地周辺の地図(図の四角形の一辺の距離 1キロメートル)

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