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 硫黄島夜間爆撃行
根本 正良

大正9年6月9日生まれ。第十三期海軍飛行予備学生出身。海軍中尉。
一式陸上攻撃機の一式陸上攻撃機の機長として比島作戦、硫黄島作戦、沖縄作戦等に転戦。


昭和19年4月  鈴鹿航空隊にて
目次
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前書き                角 信郎
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最後の硫黄島空輸往復行
物資と傷病兵輸送 
         
根本正良
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硫黄島夜間爆撃行
第1部 
              
根本正良
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硫黄島夜間爆撃行
第二部 
               

根本正良

前書き
 
平成18年9月
根本正良氏の「硫黄島夜間爆撃行」について
角 信郎

この度、根本正良氏の硫黄島夜間爆撃行の記事を中攻の会ホームページに載せることになりました。永年の願いが実現されることになり、これ以上の喜びはありません。

 残念ながら、この硫黄島夜間爆撃を敢行した一式陸攻の機長として指揮を執られた根本正良氏は平成14年8月29日に逝去されました。心からお悔やみ申し上げます。
根本正良氏は戦後、硫黄島本土返還後、硫黄島協会副会長として硫黄島墓参、遺骨収集等に尽力なされ、平成8年から福島県硫黄島協会会長として亡くなられるその日まで戦没者の慰霊に尽くされ、その間に立派な会誌「遠き島かげ」を毎年編集刊行され、硫黄島で亡くなられた戦没者の方々のご遺族と交流を続けられてこられました。そしてその間に硫黄島渡島墓参に参加されたり、また日米戦没者鎮魂の行事に参加されたりされて、戦没者への慰霊行事を続けられてこられました。また、日米合同の慰霊祭で共に硫黄島で戦った米国軍人と知遇を得て後、交遊を続けられ日米親善の為に多大の貢献を為されたのであります。

 根本氏と私との出会いですが、昭和19年春から秋にかけて二人とも北海道の千歳基地と美幌基地において同じ部隊に居りましたが、根本氏は一式陸攻の機長として猛訓練に励まれ、私は整備分隊長として陸攻整備と基地整備そして後方支援業務に忙殺されていたため、まったく面識はありませんでした。

攻撃第七〇二飛行隊は比島のクラーク基地へ急遽進出の命令が下され、根本機長の乗った一式陸攻(以下根本機という。)は昭和19年10月23日に比島クラーク基地に第一陣として到着したが、根本機は翌24日米軍戦闘機襲撃の情報を受け、急遽近郊のバンバン基地へ分散避退しました。私の乗った一式陸攻は10月24日の午前に台湾高雄基地からクラーク基地に着いた丁度その頃根本機長が乗った一式陸攻機がバンバン基地において着陸後滑走路脇の泥沼に車輪を取られていたので、その救援依頼が仲飛行隊長に伝えられていた。仲隊長より到着したばかりの私に直ちに救援に行く命令を受け、出発しバンバン基地に到着しましたが、根本機はすでに自力で車輪を滑走路に引上げクラーク基地に戻っていた。急遽私の乗った陸攻もクラーク基地に戻り、ここで初めての根本氏との出会いとなったというハプニングがありました。
しかし、それ以後はクラーク基地においても、また帰国後木更津基地においても私と根本氏と直接の出会いは殆どありませんでした。

 戦後、昭和55年中攻会の結成以後毎年根本氏と親しく出会いを重ねることなり、亡くなられるまで30年近くの間、長く交遊を続けてまいりました。その間、根本氏は戦没者に対して比島クラーク地区慰霊参拝と硫黄島慰霊参拝をなされ、また多くの一式陸攻部隊の戦没者の消息調査とご遺族への連絡などを為されました。そして最初に申しました福島県硫黄島協会会長として最後まで硫黄島戦没者のご遺族との交流を続けられ、また、硫黄島で日米合同慰霊祭に偶然にも戦い合った日米兵士との出会いから日米親善に多大の貢献を為されてこられました。

 根本正良氏は昭和20年2月から4月にかけて硫黄島との最後の物資と傷病兵の空輸往復行1回と硫黄島夜間爆撃行2回と沖縄夜間雷撃行1回を一式陸攻の機長として緻密な努力と絶大な剛運によって必死に値する運命をくぐり抜けてこられました。

今回の硫黄島夜間爆撃行2回の記事は前述しました会誌「遠き島かげ」に平成11年度と平成12年度に2回に亘って根本正良氏がご自身で戦闘記録と戦後の関連記事を纏められた稀有の玉稿であります。
そして、この2回の爆撃行の記事と最後の物資と傷病兵の空輸往復行を加えた記事を平成17年6月にご遺族が根本正良氏のご遺稿集として生前の多くの作品を纏められ発行された冊子「遠き島かげ」の中から再録したものであります。



東京と硫黄島との距離 1,250キロメートル    


硫黄島の面積 22.3平方キロメートル

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最後の硫黄島空輸往復行(物資と傷病兵の輸送)
根本正良
この記事は根本正良氏の御遺稿集『遠き島かげ』の中の「私と硫黄島との因縁」の下記
記事を再録しました。この記事に含まれております硫黄島空輸往復行は次の2回に亘る
硫黄島夜間爆撃行の前哨戦ともいうべき作戦行動でありました。
私と硫黄島との因縁

未だに私も関係して慰霊巡拝行事と遺骨収集がつづけられている硫黄島。

実はこの千鳥飛行場には私は一度しか足印していない。にもかかわらず、硫黄島にかかずらわっている理由の一つに、次のような事実がある。

 昭和二十年二月十日、当時、木更津基地に在った我が攻七〇四飛行隊に、硫黄島強行輸送の命が出た。すでに島に対する海路補給の途は絶たれていた。そればかりか、十九年十月、空輸専門部隊として編成された一〇二三空(第一〇二三海軍航空隊)もしだいに犠牲者が増え、機能を失いつつあった。そこで、窮余の策として一式陸攻の攻撃部隊である当隊に緊急の要請があったというわけだった。

半沢茂分隊長を一番機として、計5機に武器弾薬、医薬品、生鮮食料品、飲料水など各1トンを積載、帰路は1機15名宛傷病兵を乗せて帰る、というのが課せられた任務である。

一式陸攻は胴体が太く、物資を積む空間はある。しかし、勝手に積みこんでは重さのバランスがとれず、たちまち失速墜落してしまう。左右前後、重量が均等になるよう積まなければならない。時問がかかり、出発が予定より.時問遅れたのが生命とりになった。

硫黄島・千鳥飛行場に着陸後、急いで荷を降ろし、行列を作って並んで待っている、今にも斃れそうな傷病兵を15人乗せて離陸するや、トウキョウエキスプレスといわれた米軍機の来襲時間がきてしまった。音もなく低空で来襲したP38の2機により、分隊長機、三番機は一撃のもと、沖合いはるか、我々を含む基地の人々の眼前で撃墜された。

実は二番機は私だったが、一刻も早く離陸を、と焦った、三番機が割りこんできたので、彼に先を譲ったのだった。順番通りなら、私が撃墜される運命だったのだ。

分隊長機には、離陸直前に現われた陸軍の将校が、緊急に内地に連絡にゆかねばならぬ事情ができたと言って、傷病兵の一人を強引に降ろし、代わりに乗りこんでいた。

私の場合、並んでいる彼等を見ると、今にも倒れそうな者もいるが、わりと、元気そうな者もいる。しかし、選別している余裕はない。私は先頭から15番までを並んだ順に乗せることにした。「ここまで」と切ったときの、16番目の兵の、今にも失神しそうな態度、哀願の目つきを、今もって忘れ得ない。

「申し訳ないが、ここまでしか乗せられない。でも必ずまた迎えに来る。頑張って待っていてくれ。」と思わず言葉をかけたが、その後五日目、島は米上陸部隊を乗せた数百隻の艦隊にとりかこまれ、十九日には上陸。三月十七日には玉砕発表。二十五日には栗林最高指揮官ほか残存、200名余が最後の攻撃を行なった。かくして硫黄島戦は、日本側19,000名の戦死者を出して終わったのである。

当隊もまた、二十年一月五日、隊長奥田一男大尉以下7機が、硫黄島艦砲射撃中の敵艦隊(CX3、DX2)雷撃に出撃、全機未帰還となったのをはじめ、同島および同島海域戦闘で延べ34機を失い、解隊させられている。

一方、地上戦では1,033名が捕虜となり、戦後生還している。あのとき、「去るも地獄、残るも地獄」となったが、約束した16番目の兵はどうなったであろうか。その後、確かに硫黄島には行ったが、いずれも上陸米軍に対する夜間爆撃か機雷敷設であった。もちろん、傷病兵救出等はあり得ず、彼への約束は果たしていない。

玉砕のため、一片の遺骨も遺品も還ってこない彼等のために、慰霊行事をはじめ53年を経た今日でも微力を尽くしているのは、この負い目が一つの因になっている。

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硫黄島夜間爆撃行・第一部
根本正良
四周から射ちこまれる砲銃弾によって、全島が溶鉱炉の如く燃え上がっていた断末魔の凄愴な
硫黄島の航空から見た情景は五十余年を経ても眼底に灼きつけられて、今なお消えていない

私が硫黄島戦に参加したのは海軍の飛行機搭乗員としてである。昭和十九年の暮、私は比島レイテ戦で部隊が潰滅し、搭乗員のみ脱出の命を受け、永年辛苦を共にしてきた地上整備員達を陸戦隊に改編、敵地に残し(彼等の殆どは後に上陸してきた米軍と戦い、二十年四月十五日ピナツボ山麓で玉砕している) 生命 ( いのち ) からがらクラーク、ツゲガラオを経て台湾に脱出。当時千葉県木更津基地に在った第一線部隊、攻撃第七〇四飛行隊に着任した。

同部隊の主要機種は一式陸上攻撃機(略して「一式陸攻」)といい、幅20 ( メートル ) 、長さ25米、高さ5米、燃料6400 ( リッター ) を積む双発の陸上機で乗員の定数は8名。長距離を飛行出来ることから遠距離の爆撃、雷撃、索敵哨戒、輸送など多目的に使われてきた。
一方、同部隊の属する第三航空艦隊の主要任務は本邦東、南方洋上からする敵の攻撃から本土を守ることで、硫黄島防衛も当然その範囲に入っていた。そのため野島崎を基点に東南各方向に扇状に700 ( カイリ ) 、測程120浬のコースで索敵哨戒飛行を連日実施。それなりの犠牲機を出しつつ敵の進攻予知に努めていた。その傍ら、B29の空襲を幾らかでも防ぐ意で、敵の拠点サイパン爆撃を硫黄島経由で十九年十一月三日以来数次にわたって敢行し、米軍発表でも7機炎上、16機破壊の戦果を挙げたが、当方も8機の未帰還機を出している。

こういう状況下で我が隊が最初に直接硫黄島戦域に出撃したのは二十年一月五日である。私は戦地帰りという事で普段ならいわゆる「ご苦労休暇」を与えられ、帰郷を許される上、練習航空隊の教官等の閑職をあてがわれて骨休めが出来るのだが、戦局の急迫はそれを許さず着任早々主力攻撃隊に配置されていた。何事もなければこの日私は出撃せねばならなかったのだが、正月早々戦地で罹ったアメーバ赤痢が治り切らず病室にいた。
奥田一男隊長は私を外し、自ら先頭に立って10機を以て、同朝から同島に艦砲射撃を加えている米巡洋艦三駆逐艦四に対する薄暮雷撃に出撃したが全機還らなかった。思うに当日基地上空は快晴であったが太平洋上は偏西風が特に強く、その悪天候を強行突破(他部隊から出た偵察機も、全機悪天候で途中で引き返している)したため機位を失い帰路を求めている内、燃料切れと共に海没したと思われる。

現在、平和時で天候予測も適確に出来、万事コンピュータ制御で通信機器も飛躍的に進歩した中での飛行では想像も出来まいが、当時戦時で気象データも入らず一面空と海の洋上を、しかも悪天候、夜間に二千数百 ( キロ ) を航行することは大変難しかったのである。

一気に80名の搭乗員、緒戦いらいのベテランの歴戦の士を含め、猛特訓を重ねてきた彼等を失ったことは大きな衝撃であった。

隊は新たに支那事変渡洋爆撃の体験もある生き残りの松丸三郎大尉を隊長に迎え、人員機材を補充して再建にかかり、「休みは地獄にいってからとれ」の合言葉で休日なしの猛特訓に入ったが不運な事故が相つぎ、これを案じた司令の菊岡大佐が、飛行場の 修祓 ( おはらい ) を神主に頼んでさせた程であった。因みに辿ってみると犠牲者は

一月十二日 試験飛行中墜落で1機 12名(同乗者含む)

一月十五日 夜間定着訓練中1機墜落 13名(両乗者含む)

一月十七日 襲撃運動中の事故で2機 3名

二月 九日 大分基地移動中.3機接触墜落 39名(同乗者含む)

二月 十日 硫黄島強行輸送作戦自爆2機 46名(同乗者含む)

二月十五日〜十七日 哨戒未帰還.3機 24名

〜である。

2月24日米軍、第3海兵師団を増派

(新たな戦力投入)

米軍は第3海兵師団を上陸させ、前線に投人した。これによって、第4海兵師団は玉名山を中心とした東側地区、第5海兵師団は大阪山を中心とした西側地区、第3海兵師団は中央部を各々攻撃するという態勢がしかれた。

(元山飛行場付近)

米軍は、戦車2個大隊と共に2個連隊で船見台から進撃開始。守備隊の抵抗を突破し、12:00ごろ、地熱ヶ原付近まで進出。さらに一部はタンク岩に近迫。タンク岩は元山飛行場台地を占領するための重要拠点。タンク岩をめぐって肉弾相撃つ戦いが続いた。守備隊は一時米軍を撃退。13:30米軍はタンク岩攻撃を再開し、ついに占領した。これによって元山飛行場の南半分が占領された。

(西地区)守備隊はタコ岩、田原坂、阿蘇台を拠点に抵抗を続けた。

(南地区)守備隊は屏風山、玉名山を拠点に陣地を確保していたが、17:00ごろ、ついに米軍の奪取するところとなった。この日までに米軍の戦死・戦傷者は7000名を超えた。

この日、守備隊は天皇からご褒賞のお言葉を賜った。

「日本軍の夜間爆撃機には対空弾幕で対抗した」
夜空を埋め尽くす対空砲火の目標が根本機だった。

「IWOJIMA」米従軍写真家による『硫黄島戦写真』
日本語版より月日を追って日記風に編集してある


二月十三日に敵信傍受解読分析等を専門とする情報通信機関大和田通信隊(硫黄島協会創始者和智恒蔵氏は曽てここの司令をされた)は、その分析結果を「敵有力機動部隊サイパン出港北上セルモノノ如シ」と通報。これに基づいて硫黄島基地から出た偵察機「彩雲」がサイパン西北80浬で針路330度、艦艇約170を発見。「硫黄島ニ向フ算大ナリ」と報じてきた。

いよいよ米軍の硫黄島上陸作戦が開始された。十六日から硫黄島は「余りに多い艦艇数のため海面が見えない」程の米艦艇に包囲され、機動部隊からする艦載機の猛爆撃と相俟って猛烈な艦砲と爆弾のスコールを受け始めた。一方米軍は日本本土、主として関東・東海地区に牽制のため艦載機延べ1000機で空襲をかけ、翌十七日も700機を放ち、群馬の中島飛行機工場を始め各飛行場にも多大な損害を与えた。その頃、当隊の主力18機は大分基地に移動し、瀬戸内海にいる戦艦大和などを相手に攻撃の訓練中で、報により十五日で訓練は一時休止、十六日急遽帰隊せんとしたが基地木更津が空襲を受けて帰れず、とりあえず十八日4機を鹿屋基地に進出せしめ、そこから直接硫黄島周辺米艦隊に夜間雷撃を強行させた。

しかし途中何の目標もない洋上を、暗夜しかも悪天候の中を進撃させたのは無謀であり、1機未帰還、1機不時着、機体大破死傷者3名を出し、2機は引き返しの止むなきに至った。

一方、木更津に残留の予備隊から二十一日第二 御盾 ( みたて ) 特攻隊支援のため、牽制作戦として3機を出撃せしめたが橋本機は消息を絶ち、吉田機は離陸直後エンジンより発火炎上、東京湾に墜落、全員死亡。1機は引き返した。二十三日、主力攻撃隊が帰隊しないので予備攻撃隊から7機を夜間爆撃に出撃せしめたが、技術未熟もあって3機天候不良で引返し、2機はエンジン不調で引き返し、進撃していった2機は連絡なく未帰還の惨憺たる結果となった。

こうした中、同日夕ようやく帰隊した主力攻撃隊残存14機のうち、私以下、川崎機、久住機、篠原機4機に二十四日夜間爆撃の命が出た。日本古来の領土である硫黄島に爆撃に向かうなど考えてもみなかったことだ。一五時五三分、第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将直々の見送りを受けて60 ( キログラム ) 陸用爆弾12発を搭載,「高度3000、尾部の二○ ( ミリ ) 機銃で地上掃射もしてこい」の勇ましい隊長の言葉を背に、一路1250 ( キロ ) 離れた南海の孤島に向かった。

伊豆七島を過ぎれば天候は荒れ模様、雲低く西風が強い。八丈、御蔵、青ケ島を経て一七時三七分須美寿島を見る。ここは島といっても36 ( メートル ) の佇立した孤岩にすぎない。五八分黄色の煙を吐く鳥島に。針路を父島に向け最も航法の難しい海域を飛ぶ。既に日没は終り周辺は真の闇である。一九時二二分、闇の中から突如探照灯の一斉射を受ける。

眩しくて目がくらみ何も見えない。直ちに当夜の味方識別番号「ミ」のオルジスを出させるとすぐ消してくれた。父島の防空陣であった。

針路を北硫黄島に向ける。雲が積乱雲から小さな積雲に代る。夜空に星が鮮やかだ。初陣の射整員常原が恐怖の大声をあげて「夜戦ですッ」と叫ぶ。指さす右後方を見ると金星である。明るい金星の光がずっとついてくるので敵戦の灯と見誤るのも無理はない。

緊張して進むうち二〇時○八分前方洋上はるかに夥しい火が炸裂しているのが見えた。沖の遠花火のように美しいが、その激しさに正直ゾーッと背筋に走るものがある。中空にも火花が乱舞している。先行の僚機が射たれているのか。あれが目ざす硫黄島だ。

爆音の中、同乗全員は声をかけお互いうなずきあって気合いをかけ合う。それも一瞬であった。我が機も忽ち火花の渦中に巻き込まれた。島の周囲を 十重二十重 ( とえはたえ ) に囲んでいる敵艦隊の高角砲群の集中砲火を浴びたのだ。まず下から上ってきた団子のような黒い塊が白い ( ひら ) めきと共に炸裂し火花が ( はじ ) け散る。光と音の速度の違いから一瞬おいて大音響の爆発音が聞こえ、同時にピン、カーンと断片が機体に当る音がする。そして凄まじい風圧が機体を襲う。恐怖がまず目と耳と、そして全身に及ぶ。それが間隔をおいてのものならまだしも、前後左右間断なく炸裂するのだ。振動で席から転げ落ちる。今度こそ当るか、やられるか、しかし愛機は飛んでいる。墜ちないのが不思議だ。

漸く高射砲弾の弾幕をくぐりぬけ硫黄島が眼下に、視野いっぱいに入ってきた。それは何という凄まじい戦闘絵巻であろう。正に地獄絵である ( ほの ) 黒い島に四方八方からおびただしい砲弾が射ち込まれている。寸刻の休みもなく大小の弾道が弧を描いて流れている。太い弾道は艦艇からする艦砲、細い火箭の流れは小艇からする機銃弾、機関砲の弾丸であろうか。陸上でも戦闘は激しく行なわれていてお互いの弾丸の交錯は華やかでさえある。弾着の度に上る火。時に細長く尾をひく赤い火は火焔放射器の火焔であろう。

その間ひっきりなしに照明弾が上る。青白い円形の輪が広がって消える。交錯する火線と弾着点を辿ってゆくと彼我の第一線がはっきりわかる。それで見る限り米軍は千鳥飛行場一帯を既に制圧し、南・西海岸に沿って海岸線を進撃中のようだ。摺鉢山はまだとられていない。その証に山麓を囲んで首輪のように盛んに銃弾の交錯が行なわれている。

私は束の間であるがこの苛烈な戦闘絵巻に見惚れた。しかしそれも一瞬で、我々は又しても忽ちにして今度は機関砲機銃の銃丸の渦中にひき入れられた。今度は地上から 槍ぶすま のように ( すだれ ) のように 火箭 ( ひや ) が上って幕をはる。機銃弾は高射砲と違い音響を伴わないだけに恐怖感は少ないが、前方を阻むように赤い火柱が林立している所へ突っ込むのは脅威である。しかし、ここまで来てたじろぐことは出来ない。ままよ、と覚悟を決め与えられた目標、千鳥飛行場に速度180 ( ノット ) 、方位260度で進行。ふと見れば出発前言われた通りの灯が2灯、青白色の灯が点滅なしに天に向けられている。これは「第一線に近い所で点灯している、二つの灯を結ぶ線の右は味方、左は米軍。間違っても味方を誤爆しないように」との約束の灯であった。島全体の燃え上る火で機の翼面は明るく映し出されている。
直下に入ってきた飛行場にたなびく白煙は煙幕であろうか。爆撃照準器に全神経を集中し爆撃。この時ばかりは戦場の騒音も、爆音すら耳に入らない。

二〇時二〇分、3/4秒間隔で全弾投下。12発の弾着が煙幕を透して明らかに見えた。島を離れると再び高射砲の猛烈な弾幕を浴びる。海面を見ると一見数百と思う艦艇が、航跡を白い尾のようにして海面を埋めて動き廻っている。小さい虫がウジョウジョと逃げ廻っている感じである。それにしても島を取巻く艦艇の多いことよ。これでは一機一艦に体当りしても間に合うまい。

高射弾幕を避けて右に左に蛇行しつつ、追いかけてくる砲弾の炸裂音と不気味な被弾の金属音の恐怖の世界が遠のいて 間遠 ( まどお ) になり、やがて驚くような静寂と暗黒が来た。時計を見ると二〇時三一分、射たれ始めてから一八分、その長さは、二時間にも三時間にも思えた。

人員機器に異状のなかったことを確かめ、帰路に就いて 航空図 ( チャート ) を見ようと掌を開くと湯気が上っている。手に汗を握るとは真実だったのだ。しかり、戦争は正に恐怖と戦慄の連続である。

だが我々はこれで一応砲弾丸の中から解放されたが硫黄島の兵達はどうしているだろうかと、弾着の度に上る火焔で溶鉱炉のように、火山口のように全島が燃えたぎっていた凄惨な島の現状を思い起した。あれでは恐らく一兵も生き残れないであろう。真実そう思った。

帰路は敵機への警戒をしないですむだけでも楽だ。苛烈な戦闘で乾いた咽喉に程よく冷えたサイダーが心地よい。長い無聊の航路を終えて基地に着いたのは翌日の〇時二三分だった。しかし驚いた事に帰ってきたのは私の一機だけだった。後で知ったのだが川崎機は硫黄島周辺の艦艇の砲火が左Eに命中し、片舷飛行となり父島沖に墜落炎上。幸い搭乗員は脱出し父島に収容されたが、久住機は一瞬にして撃墜されたらしく未帰還。篠原機も同様被弾。小野搭整員が左脚切断、機上戦死。攻撃不可能となり引き返して豊橋基地に不時着していた。

帰着すると報告は中村飛行長に直接せよ、とのことで詳細報告。飛行長は天井から吊した畳三畳大の硫黄島の大地図に対して細い棒を与え、地図上は指示しつつ彼我の地上戦の現況について細かい説明を求めたので、生々しい見てきた許りの戦況を報告した。

長い質疑応答を終えた飛行長は「初めて成功致しました」と寺岡長官に報告。長官から直に「ご苦労であった。ゆっくり休め」のお言葉を賜わった。しかし他機の帰還を待って朝方まで指揮所にいたが、遂に一機も還ってこなかった。嬉しかったのは硫黄島守備隊最高指揮官栗林中将から我々の帰着前に下記の如き電報が届いていたことだった。

「本日ノ爆撃ヲ深謝ス、爆撃ノ開始サレルヤ敵ハ周章狼狽シ飛行場ニ煙幕ヲ張リ攻撃ハ頓挫ス、

為ニ我方士気極メテ上レリ、今後ノ続行ヲ期待ス 硫黄島最高指揮官」我が隊は一月の硫黄島雷撃を含めて、月明の関係で三月五日で.一旦出撃を停止するまでに延べ34機を失っているが、目的を果たして生還した機でこのように完壁に成功した例は私の機以外にない。

面白い後日談がある。戦後十三年経ってNHKラジオ(その頃はテレビはない)の要請を受けてこの体験を喋らされたことがある。「危険を侵して味方識別の為に灯を空に向けてくれた味方の兵に感謝したい」と話したところ、早速反応があって、「私です」と申し出られたのが、当時大阪山一二糎高射砲台勤務の、何といわき市在住の佐久間治男氏だった。

「でも我々が言われたのとは少し違う。我々は今夜内地から 武器弾薬 食糧などを積んだ機 がくる。落下傘で投下するから落下地点を示す為に投光せよとの命だった。ところが落下傘どころか爆弾を落とした。話が違うじゃないかと思ったが、このお陰で我々に向かっていた敵の砲火が一斉に空に向かい、弾丸の来ない時間が何分かあり、初めてホッとした時間をもてた。しかし今度は激しい銃火に包まれた味方機を見て、何とか無事で帰ってくれ、と祈りました。」

もう一つある。
日米合同慰霊祭で知り合った.元海兵隊第三師団所属の中尉だったボブ・ハンセン (Bob. E. Hansen) 氏である。

「私達第三海兵師団の後続部隊が上陸したのは二月二十四日の午後八時ごろだった。橋頭爆に辿りついてホッとした矢先、双発の日本機が一機現われ爆撃を始めた。日本機の空襲に遭遇したのは初めてで、怖くなった私は遮蔽物の蔭に潜りこんだ。だから激しい十字砲火を浴びながら飛んでいった日本機がその後どうなったかは知らない」(彼の『戦記』から)戦後、戦史叢書始め陸海の公文書で探したが当日硫黄島爆撃を行なった機は私以外にない。

従って冒頭に示した「IWOJIMA」米従軍写真家による『硫黄島戦写真集』の二月二十四日の欄にある「日本軍の夜間爆撃機には対空弾幕で対抗した」と解説のある夥しい 曳光弾 ( えいこうだん ) (弾道を分り易くするため四発に一発入っている後部から火を噴く弾丸のこと。この火が写真には明るく線になって写る。従って真実の弾丸はこの白線の四倍飛んでいることになる)の夜空を ( ) る白い線の集中されている先に、姿は見えないが飛んでいる日本機は私である。思い返してもこのような射たれ方だった。

それにしてもたった一機にこれだけの銃砲弾を惜しまない米軍。彼等は勿論狙ってはくるが、そこに弾丸の幕をはる弾幕作戦だからそこを突破するとき必ず当る。ただ当る個所が運命を分けるだけだ。この時も大小数十ヶ所に穴を開けられたが奇跡的に重要機器、人員には損傷なく戦場を離脱出来た。地上の守備隊員はそうはいかない。戦場を離脱することは不可能だからだ。因みに戦後発表された米軍の硫黄島戦に消費した砲爆弾の数量、重量は下記の如くなっていていずれも記録的である。

投下爆弾 8,360トン(たたみ一畳当り1.1トン)

艦砲射撃 14,250トン(29,500発)(たたみ一畳当り1.9トン)

地上砲火 450,000発

戦闘が終った時、たたみ一畳に2.2人の死体が遺されたことになる(日米両軍で戦没者は26,721名)。特記すべきはあの精強を誇った、怖いもの知らずといわれた米海兵隊員で、発生した死傷病者21,020人の内の戦病者845名はすべて精神障害者、恐怖の余り発狂した精神異常者であること。しかも内、181名は戦後も回復することのなかった重症者という。勿論、日本軍にも発狂者はいたといわれる。これも実戦闘を体験した者ならば、通常の神経の持ち主ならあり得ることと理解出来よう。戦争は一口でいえば恐怖そのものである。大体、人間が最も恐怖を感じるのは自分の生命を脅される時ではあるまいか。死ぬのではないか殺されるのではないか。その恐怖に耐えて勇戦奮闘された硫黄島の戦士をあらためて心から追悼すると共に、顕彰と感謝の誠を新たにしこの目で見た硫黄島戦記(第一部)を終える。
硫黄島夜間爆撃行・第二部
根本正良
1)硫黄島最後の攻撃の秘話

「これで全員か」

米軍上陸以来、三十六日、苦闘を重ねてきた硫黄島最高指揮官栗林忠道中将は、いよいよこれまでと決断、最後の攻撃を実施すべく残存兵士の総員集合を命じたが、予知していたとはいえその数の余りの少なさに思わず問い返した。事実、指定された場所と時間に伝え聞いて集合してきた生存兵は約300名足らず。しかも五体満足の頑健な兵は一兵もいず、痛々しく傷を負い気息えんえんとした、疲れ果て今にも倒れそうな衰弱し切った兵が大部分であることに、中将は絶句し訓示の言葉が出てこなかった。
昭和二十年三月二十五日夜のことである。既に十四日、米軍は硫黄島作戦の終息を宣言、勝利を内外に誇示していた。それは大本営も現地日本軍も当然知っており十七日、栗林最高指揮官は予てから作成していた祖国への訣別電を打電せしめ、これを以て無電器を破壊する、とした。然し残存兵は未だ濠中深く潜んで米軍の投降勧告を拒否、抗戦を続けていたが既に食無く水無く弾丸も尽き果て、 ( しらみ ) つぶしの米軍の攻撃にあえなく無念の死を遂げる者が続出していた。

この状況に栗林中将も最後の胆を固め、「藷士は、長期間に亘り辛苦に耐え孤立無援の中善戦敢闘、米軍に多大の損害を与えてきた。これは予の深く嘉賞するところである。然し戦況我に利非ず、ここに予は最後の攻撃を敢行することを決意した。ここに終結した兵は明朝〇三〇〇を期して西海岸近く、飛行場北辺の米軍幕舎を襲撃し、一兵でも多くの米軍を殺傷して散華せよ。突入に際しては隠密接近を第一とし飽くまで奇襲を旨とせよ。諸士の最後の勇戦奮闘を祈る。予も又先頭に立ち最後まで諸子と行動を共にする」[註1参照]

声をおさえて諄々と説いている時であった。突然南の米軍陣地に空襲警報が鳴り出し、やがて高射砲が砲撃を開始し夜の静寂は破られ騒然となった。当初爆音を聞いた時はいつもの米軍機と気にもとめなかったが高射砲が炸裂し出したとすれば相手は日本機だ。絶えて見たことのない友軍機の空襲である。夜空を見上げる兵達に喜色が浮かび思わず万歳を口走る兵も出た。中将もこれには欣然とされ、おさえていた声を高くし「これ 幸先 ( さいさき ) がいい。明朝の攻撃は勝算疑いなし」と訓示を結ばれた。

この最後の攻撃前夜の状況を語ってくれたのは当時二七航空戦隊司令部付として現場にいて生還した元海軍上等兵曹、松本巌氏である。

昭和五十五年頃だったろうか、京都で行なわれた硫黄島協会役員会で故郷大津市から出てこられた同じ役員の松本氏は「一度お会いしてあの夜栗林長官が大変喜ばれ一同の士気が上り、翌朝の最後の攻撃が大成功に終ったことをお話申しあげたいと永年お探ししてました」と言われる。何でも私が『文藝春秋』特集号の募集に応じて投稿、入選して掲載されたこの夜の爆撃行を読み、後日硫黄島協会役員名簿で同一名を発見。以来機会を求めていた、とのこと。

「奇襲に成功したもう一因は、あの空襲騒ぎで米軍が疲れ果て、もう来まい、と安心して寝込んでしまったのにもあるのです」松本氏の話は微に入り細に亘り、当事者でしか分らない信憑性がある。私もあの最後となった硫黄島夜間爆撃行をもう一度思い出さざるを得なかった。これは私にとっても8機中唯1機のみ成功した長距離夜間高々度爆撃であり、硫黄島への最後となった記念すべき出撃でもあったからだ。

[註1] ビル・D・ロスの『硫黄島?勝者なき死闘』によると「二十六日未明200〜300名の日本兵の最後の決死攻撃における.栗林中将の作戦と決断は巧妙を極め、彼等は万歳[バンザイ]を叫ばず整然と一言も発せず攻撃してきた。ために、元山飛行場の西側の野営地でぐっすり寝込んでいた海兵隊の設営隊、補給部隊、航空隊パイロットらは不意を襲われ、海兵隊で戦死9、航空隊で44。負傷者、海兵隊で31、航空隊で88を出した。日本兵の遺棄死体は262。他に10名が捕虜となった。因みに硫黄島最初の戦死者の名は不明だが最後に戦死したのはこの時のハリー・マーチン中尉である」とある

2)硫黄島最後の爆撃

硫黄島に対する夜間爆撃令が出たのは、三月二十四日である。
第三航空艦隊から我が飛行隊を司る七〇六航空隊に対し「七〇六空は一式陸攻9機以上ヲ以テ二十五日以降可能ナル限リ硫黄島爆撃ヲ敢行スベシ」の下令あり、第一陣として我が第二分隊の主力12機より8機[註2参照]が出撃することになった。搭載爆弾、陸用60 ( キロ ) 各12発。投下高度8000 ( メートル ) 以上。目標、米軍陣地、命を受けて宿舎に帰ってまず考えたのは暗夜1300キロを洋上飛行し、高々度から今や戦火が絶え暗黒と沈黙の島と化している20平方 ( キロ ) の小島をいかにして発見するか、であった。これは広い砂浜に落とした小粒のダイヤを探すより至難だ。

[註2] 

硫黄島夜間爆撃隊編成表(隊番号の各機別搭乗員数と機長の名前)

    3月25日の夜間爆撃隊の一式陸攻の機数8機(2機で1小隊「D」を組み、4D編成)
隊番号 搭乗員数 機長名 当日の硫黄島爆撃の行動内容
1/1D 9名 丸山 栄住 公算爆撃を実施して帰還
2/1D 8名 中桐 敏夫 未帰還
1/2D 8名 糸川 保男 公算爆撃を実施して帰還
2/2D 8名 彌永 高明 未帰還
1/3D 9名 保田 英四郎 2機接触で往路途中引返す
2/3D 8名 富田 徳次 未帰還
1/4D 9名 菊島 大 2機接触で往路途中引返す
2/4D 8名 根本 正良 硫黄島爆撃を実施して帰還

[註2]の補足説明を下記に追加します。

本文の内容の追加記事として根本機のみが硫黄島爆撃に成功した事実確認について根本正良氏のご遺稿集にあるこの本文とは別の下記の記事を参照して上記の記述としました。

なお、上記の帰還出来た5機の搭乗員もその後の戦闘で丸山分隊長機を含め、多くの方が戦死されております。

 「この日分隊長機外すべて硫黄島を発見し得ず、分隊長機も糸川機も公算爆撃で帰還した。そのまま夜明け迄待ったが途中引返した2機を除いた、彌永、中桐、富田機は遂に還らなかった。」

現在の平和時で精巧な電子機器をもち、レーダーを備え万事自動的に制禦され、安全に黙っていても航空機器がもっていってくれるのとは違う。下界を見れば灯火煌々として島なり船なりの存在を明らかにしているのとは違う。灯火管制で敵味方とも真の闇。どこが陸地でどこからが海かも判らない。特にこのコースは気象が変化する。今なら予め正確な気圧配置図がありある程度予測も出来、機器も即座に対応してくれるが当時はそうではない。天候状況すら飛び出して初めて判る有様。とも角頼りになるのは 羅針盤 ( コンバス ) のみ。そのコンパスが北0 ( ゼロ ) をさしたとしても地球は各地域により独特の磁力の違いがあってコンパスが狂う。 である。それと自機が生産された時以来もっている 自差 。こうと決めて羅針盤に針路を設定しても所々での磁差をプラスマイナスして自差を加減し、その上刻々と変る風向風速を計算して、針路を常に修正していかねば洋上飛行は成り立たない。

計器類と外界。一瞬の瞬きも許されず注視していなければならない。すべては搭乗員の腕と頭の人間 ( わざ ) だが、彼等とて今のように気温、気圧、空気すべて調整された下界と同じ気密室内での作業でなく、気圧の変化をマトモに受け、高度をとるにつけ下る気温(1000米で6度低下)の為、重い冬の飛行服の中に不自由な電熱服を着込み、酸素吸入マスクをつけ体から尻尾のような酸素管と電熱コードを引きずっての仕事である。
高々度では人間の思考力、判断力等すべて地上の60%に低下する、という数字があるそうだがウソではない。環境が悪ければ能力はおちる。

さらに出撃には隠密接敵が条件だが、レーダーでキャッチされたら艱難辛苦の上ようやく辿り着いたとしても敵戦闘機、銃砲火の防空陣が待ち構えていて、余程の奇跡がなければ一巻の終りだ。

とも角辿りつく方法、作戦について私が 航空図 ( チャート ) と一晩睨めっこして考えたのが一ヶ月程前に漸く搭載することになり、白分なりに秘かに操作訓練を繰り返していた電波兵器、電波探知器の活用である。当時まだ幼稚で「何度方向何粁先に島か艦か飛行機か何かがある」を示すだけのものだが、これで鳥島硫黄島間にある無人の小島、西之島を捕捉しここで機位を確認、針路を修正する。

勿論硫黄島を直接探知出来れば最高だが、電波を出したらたちまち相手に逆探知されてこっちがキャッチされ襲撃されるからこれは絶対出来ない。
航空図の上でも見逃し勝ちな西之島(戦後、海中噴火して新西之島が生まれ、又消滅して有名になったが)これを重要ポイントとして新兵器を活用して捉える、これが私の立てた大作戦であった。

攻撃隊整列、一四時三二分。「必ズヤ硫黄島デ玉砕セル将兵、霊ヲ慰メルベク仇ヲウツテコイ」の司令の訓示を後に、司令長官寺岡中将以下の見送りを受け、一五時五分丸山分隊長機を第一に 殿 ( しんかり ) は私が例により受け持って、一五時二五分木更津基地を発進。

大島の西から外洋に出て ( ) 島、 ( にい ) 島、 式根 ( しきね ) 島、 神津 ( こうづ ) 島、更に 三宅 ( みやけ ) 御蔵 ( みくら ) の伊豆七島を過ぎると315度方向よりの西風が強くなり、海面も泡立つ程。この辺は余り心配ないので航法を副偵の佐藤に任せていたがどうも東へ流されているようだ。
佐藤の所へ行って尋ねると「間違いありません」と言うがそれなら目前に現われていい筈の八丈島が見えない。

ふと右を見ると遠く八丈富士が夕闇に霞んでいるではないか。「五度右へ針路を修正せよ」命じてはるか前方を見ると彼方に菊島機と保田機が雁行して飛んでいる。
佐藤はつい彼等につられていたらしい。

  ( あお ) ケ島が見えてますます風速が強くなり気流も悪くなって機はひどくゆれる。
その時である。

雁行していた2機があっという間に接触し、どうやら尾翼と前翼が触れ損傷したらしい。早くも脱落して引き返していく。彼等の無事基地帰着を祈りながら進むと西方に 須美寿 ( すみず ) 島が荒波に洗われている。島とはいえ切り立った高さ136メートルの岩石が屏風のように並ぶ列岩である。これ以後は島とてなく暫くは雲と海だけの世界である。やがて硫黄島とのほぼ中間にある火山島、 信天翁 ( あほう ) 鳥の生息地としても有名な鳥島が現われる。

いつも思うのだが、洋上の島というのは当初黒一点として現われ、次第に大きくなってくるものではない。視界の何もない空間に現出した時は、既にある大きさになっている。人間の視力の限界を示す一つの例であろう。

今も噴煙をふいている鳥島には数人の気象班員が上陸して気象通報を送ってくれている筈だが何分にも絶海の孤島、食糧補給すらままならぬと聞いている。一七時二二分、鳥島を過ぎると再び上下左右目に入るのは海と空だけ。心細いこと甚しい。

しかも落日は終り 黄昏 ( たそがれ ) の時間である。
一七時四五分、前方の薄闇の中に 惚焉 ( こつえん ) と海中から牙をつき出したような 嬬婦 ( そうふ ) 岩が現われた。標高98米の切り立った四周、断崖絶壁の佇立した巨岩であるが、周囲何もない水平線をつき破って鋭く立っている姿は、遠くから見ると無気味であり戦慄すら覚える。然し近付けば 人懐 ( ひとなつか ) しげに孤独を訴える海獣に似て呼び声が聞こえてくるようだ。ここで機は硫黄島に向け針路を 左へ 6度変えなければならない。ところが前方を飛んでいた富田機は何を錯覚したか 右へ 変針。
注意をする間もなく紫紺色に変った西空に向かって消えていった。

これが彼等とのこの世での永別であった。これにはさすが橘も「機長、富田、右へ行きましたが左でいいんですよね」と不安がる。
単純なことで空中ではよくやる錯覚だ。

先輩から「誤差は許されるが錯覚は生命とりになる」とはよく言われたことだ。

ここから先約300粁は何の目標もない洋上飛行であり敵の空域。航法と共に警戒が怠れない。しかも直ちに上昇にかからないと命ぜられた爆撃高度に達しない。全員に酸素吸入器を装着せしめてアップをとる。ところが考えたら今日あてがわれたこの機は、馬力が出ないとて二度引き返しの前歴をもつ ( いわ ) くつきの機で修理はしてあるがどうも調子が出ない。

上昇角度を少しでも上げすぎると激しい振動が起こる。いわゆる「失速前フラッター現象」でヤバい。だましだまし上げてゆくしかない。
機のことのみ心配はしておれない。この辺までは敵機が来ているかもしれない。高度をとるにつれ、海面も見えなくなり四方は暗い空間のみ。何層かの雲をぬけた。頃はよしと見張りの目を休めずに、予ての作戦通り電探員の糸賀に左前方に電探を入れさせる。彼はすぐ「前方15粁に感度あり、島です」と西之島を捉えてくれた。一九時九分、左90度で10粁となった。やはり航空図の上の推定位置に誤差があった。ここで機位を訂正、針路を右3度に指示、硫黄島上空に向けた。それにしても 速力 ( スピード ) か遅い。当然のことだがまだ燃料4600 ( リッター ) えて、一 ( トン ) の爆弾を積んでの上昇だ。重い荷物を背負って山を登るのと同じだ。その遅い速度で計算してほぼ2時間。推定位置硫黄島の上に出た。

辺りは僅かな星明りの外は漆黒の闇。高度7000米の下は深淵ともいうべき底無し沼を見る思い。何一つ見えない。全神経を集中して見張っていると一瞬光るものが目に入った。前席の橘に指さすともう消えて見えない。だが彼が「何ですか」という風に振り返った時又数個光った。今度は彼も諒解した。大きく手を上げてその方向に進入していった。お互い酸素マスクをしているので言葉は通じないが、意志がすぐ通じるのは日ごろ一心同体で動いているペアの有難さである。と突如数発の高射砲弾が未だ下方だがボコボコボコと炸裂した。高射砲を射ってくるとは間違いなく硫黄島である。とすれば先の光は高射砲の発砲火か。オーバーしてしまったので右旋回して再び160度で突っこむと、左下方に発火光が続き今度は二、三〇発の砲弾が炸裂した。爆風がきて振動する。慎重を期しその発火光を目標に0.25秒間隔で6発。続いて220度で突人。僅かな波打際が見えたのでそこを目当に残弾を投下する。その瞬間、大きな爆風と共に至近弾が間近かにきた。敵はVT信管を使っているので砲弾は忽ち近接してくる。
然し一方、高射砲を射ってくるということは夜間戦闘機は飛ばしていない証でありその点は安心だ。
二一時一七分。ともあれ長居は無用と、全速力で高射砲に追いかけられながら右へ旋回し、下降しながら弾着を見た。8発だけ確認出来た。当初のと思われる2弾は何かに命中したと見え、赤く燃え上り焔が雲に映えている。風がないのか黒煙が二 ( すじ ) 中空高く上り、ある高さで風にあってか鉤形に折れ東にたなびいている。地上の火災は北硫黄島に達してもよく見えた。針路を350度にとって四〇分、荷を軽くしての下降だからスピードが出る。嘘のように鳥島に出た。ここまでくると八丈島の長波が入る。

それを帰投装置でキャッチして 自動操縦装置 ( オートパイロット ) に入れれば、後は機長さえ計器を見張っていれば全員休ませていい。出撃だけは行きはよいよい帰りは怖い、の逆だ。成功して当方の損害もないと心も軽い。

なんといっても無事戦場を離れての帰路ほどいい気分はない。緊張で乾いた咽喉に高々度飛行で冷え切ったサイダーが実に快い。ところが八丈を過ぎたら急変して悪天候。東京湾口付近では霧が降り出し視界ゼロとなった。ふとフロントガラスに当る雪と雨の塊りの先に光が見えた。「機長、前方に灯が見えますッ」同時に副操の田畑が叫ぶ。よく見ると赤、白かすかに点滅している。赤白点滅は 布良 ( めら / 野島崎)航空灯台だ。まだ不安がっている橘をなだめて突っ切らせると霧は上り館山の真上に出た。地上からは「タ」(館山の頭文字)の発光信号が送られてきた。


硫黄島への夜間爆撃を報じた昭和20年3月28日付の朝日新聞記事
(木更津基地にて高柳満寿報道班員の取材した記事)

上記の記事は不鮮明でありますが、左下の手書きで搭乗員の名前を下記のように実名を示しています。
M中尉=丸山分隊長(丸山栄住)、N少尉=根本正良、T一飛曹=橘光男

帰着時刻はドンピシャリ予定到達時刻として打電していた二十六日一時二三分。
エンジンを切って機外に出ると機付整備員の金沢一整曹が挙手の礼をしながら笑顔で「お帰りなさい。お疲れさんでした。どっか異状ありませんでしたか。」と機体に目をやって弾痕を見つけ「あ、やはり相当射たれましたね」他に誰か帰ってるかと言えば「誰も。いつもと同じですわ」帰着報告を終えて一時間。丸山分隊長機が帰ってきた。
「お帰りなさい。東京湾口の霧にゃァ悩まされたでしょう」と声をかければ分隊長、辺りを見廻して誰も他にいないことを確かめたうえ「実はな俺、硫黄島見つけ切らんで、この辺と思う所に投弾して帰ってきたんだが着いた所は大洗近く。そこから反転南下して基地へ入ったんで東京湾口は通っていないんや」と苦笑される。
ベテランの分隊長は電探も帰投装置も使わなかったようだ。

恒例で生還機は即刻、コース上の気象状況を刻明に気象班に報告するのが義務となっている。そのため指揮所を出た所で高柳と名乗る海軍報道班員に呼びとめられ、詳しい戦闘状況を教えてほしいとの申し出を受けた。機密事項を除いて話すのは構わないが、私には至急報告せねばならぬ重要事が残っている。事情を述べて橘を呼び、彼に私の代りを命じた。報道班員の新聞記事がT一飛曹談となったのはこの為である(彼の談話の中で機長N少尉とあるのが私である)。
[註3参照]

それきり帰ってきた機はなく、伊藤福三郎隊長からは同行して未帰還の他の僚機の最後に別れた状況についてあらためて訊かれた。生存しているとしても既に燃料は使い果たしており海沈しているのは間違いない。3人で一睡もせず室内のベンチにゴロ寝して夜明けを迎えたが爆音は聞こえて来ず、全国各岬にある監視哨からも何の情報も入って来ず、二十四時間後、全機未帰還と認定された。

帝国海空の中攻隊の最後の精鋭を出してのこの惨憺たる結末に、連続出撃計画はあっけなく中止となり、これが結果的に陸海を問わず硫黄島への最後の爆撃行となった。もっとも戦局は急転回し、我々が寝不足のまま母基地、松島基地へ戻った時、米軍は沖縄進攻作戦の第一歩として沖縄 慶良間 ( けらま ) 列島に上陸した。

一服する間もなく我々は損失機を補充して猛訓練を再開し、沖縄出撃の命を待った。
三月二十八日、命により九州宇佐基地に進出した第一分隊主力12機は、夜間雷撃命令であっという間に板村分隊長以下歴戦の士を始め2機を残し潰滅。補充再建したばかりの私共第二分隊の出陣となった。

本稿で戦場での戦争の実態より戦場までの往還について長々と記したのは、現在渡島墓参では自衛隊機で二時間二〇分、ひと眠りしている間に安全に島に着けるほぼ同じコースを、大戦中は倍以上の時間をかけ敵機より先に天候気象と戦い、前述のように航法機器も幼稚、すべてを自分の能力で操作し苦労を重ねていた、しかもその為に多くの貴重な人員機材が空しく失われていた、意外と知られざる実情を知って貰いたいが為である。

事実当隊は硫黄島戦で延べ34機272名を失っているが、その大部分は敵機や砲火によるものでなく、航法を誤っての未帰還である。そしてその多くは文字通り水潰く屍となって島で玉砕した勇士と同じく今なお、最後の情況は何人も知らず一片の遺骨遺品も遺族のもとには還ってきてはいないのである。

[註3] 高柳満寿報導班員とは縁があり、その後沖縄作戦で九州鹿屋基地にいたとき、酒席でバッタリ隣席となった。氏の三月二十八日付で朝日、毎日、読売各紙に掲載された記事(別掲)を我々も教えられて知ったばかりで、あの灯を「英霊の誘導か」とした名文は有名だったので「報導班員は名筆家ですね。あんなに書いて頂いて光栄です」と申し上げたら「こっちも言いたい。あなたこそ名パイロットです」とやられた。戦後、元の毎日新聞社に戻られた氏は、今度は毎日新聞系の福島民報社の編集長として福島に赴任されてきて三度目の奇遇を果たした。

「今だから言うがあの時、司令部から明夜硫黄島へ大編隊で空襲をかけるから取材にゆけの命で木更津に行ったら(大本営発表は中部太平洋某基地となっているが実は木更津であった)何と出撃は8機のみ。しかも帰ってきたのはたった1機。驚くより呆れましたが、あれが当時の帝国海軍の実力だったんですね。鹿屋で再会したとき今度は雷撃と聞き、ああ、根本さんともこれが最後と正直思ってました。今こうして会えるなんてウソみたいです」と話が尽きなかった。


3)最後の爆撃の秘話(そのとき米軍は?)

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前夜祭会場で
左から横綱 曙、ジョン・リッチ氏、根本、上坂冬子氏 
 

平成九年六月四日、貴乃花、曙(当時は米国籍)の日米両横綱誕生を記念して日本相撲協会が主催する「日米戦没者鎮魂土俵入」行事が、硫黄島に東京都が造成した鎮魂ヶ丘で古式豊かに行なわれることになり、この企画に協力されて、自らも渡島することになっていた作家上坂冬子氏から招待状が届けられてきた。
喜んで参加して両横綱を始め、舞の海他の関取衆や日米の招待客招待客と共に自衛隊機で渡島した。


当日は早速天山碑の前で追悼式典があり、終って島内の戦跡を巡拝。夜はささやかな前夜祭が催された。そのときである。上坂氏が「 貴方 ( あなた ) 相応 ( ふさわ ) しい方を紹介するわ」と元AP通信極東総局長を勤め、新聞記者として数々の賞も頂いている高名なジョン・リッチ氏と長く駐日米大使館に勤務し日米関係に貢献されてきた、チャールズ・T・クロス両氏を引合せて下さった。
お二人とも永年に亘る大の相撲ファンで協会から関係者ということで招待され、米国からわざわざ来日されたのであった。

女史が私に相応わしいといわれた理由は言葉を交わして直ぐ判った。何とお二人は旧米海兵隊第四師団に属し、硫黄島上陸作戦に参加された方だったのだ。両氏には私も海軍機搭乗員として硫黄島戦に参加した旨を告げると「じゃぁ我々は戦友同志だ」とうちとけて盃をあげ早速当時の回想談となった。

両氏は米海兵隊史上例のない70%が死傷した苛烈な硫黄島戦の実体を詳しく説明したあと

「そういえば私には日本機の空襲で唯一忘れられぬ思い出がある。それは三月二十五日の夜のことだ」と言い出される。

「米軍は二十四日、硫黄島戦の終結を宣言。後は戦場整理ともいうべき作業に移り、島は砲銃声も絶え静寂に戻りつつあった。我々はいつ引揚命令が出るかそれのみ待っていたところ二十五日夜、“明朝〇六〇〇までに西海岸仮桟橋集合。そこで待っている輸送船に乗船、ハワイ経由本土帰還せよ“の命が出た。幕舎は騒然となり歓声に沸いた。その時だ。微かな爆音がして高射砲が ( うな ) り出した。日本機の空襲だ。二月十九日の上陸以来、多くの僚友が死傷してゆく中で幸い無傷で生きぬいてきてようやく明日帰れる、という時になってやられちゃかなわんと慌てて壕に飛び込んだ。爆発音が聞こえ何かが燃え上ったが自分は事なきを得た。然しこの時程恐怖を感じ生命を惜しく思ったことはなかったので忘れられず、今なお強く印象に残っている」と真剣な表情で述べられる。そして再び冗談じみた言い方で「今貴方は飛行機乗りと言ったが、まさかあのときの日本機は君じゃないだろうね?」とニヤリとされる。

私も驚いていた。こんなことがあろうか。時日、状況全く同じである。ユーモアで返答すべきだろうが真実は真実である。思わず真顔で「それは " まさか でなく まさに 私だ」日本語の堪能な両氏はすぐ私の話す当夜の攻撃行動を理解され「とすると貴方と私達は今日初めて会ったのではない。五十二年目の再会だったのだ。お互いこんなハッピーなことはない。正に神の引き合わせだ」リッチ氏とクロス氏は小柄ながら米人らしい逞しい腕を伸べると、あらためて力強い握手を求めてきたのであった。



ボブ・ハンセン氏と10年ぶりの再会

海兵隊第三師団所属の中尉だったボブ・ロベルト・ハンセン氏とは昭和六十年の硫黄島日米名誉の再会行事のとき初めて会った。お互い握手していつ上陸し、負傷はしなかったか、などが話題となった。

「私はここではないが沖縄で被弾し未だ盲貫弾片が左足に残っている」と言うと彼も「偶然だ、私も最後の最後に左脚を射たれた。幸い大事には至らなかったが神経が切られて、今も 駆足 ( かけあし ) は出来ない」。こういうことで親密になった。彼はエンジニアなので細かい上に几帳面な性格で自分の戦記を克明に覚えていた。「私は空の方だ」と言うと彼は「私は日本機の空襲には二度あっている。


しかも上陸初日と島から離れる最終日だ。最初のは二月二十四日午後八時すぎ。何とか師団全員が上陸し橋頭爆に辿りついた時だ。日本機の空襲があった。空襲は初めてなので恐怖にかられて夢中で近くの遮蔽物の下に飛びこんだ。そのとき見た日本機は双発の爆撃機で、実に勇敢で低空で味方の十字砲火を浴びながら直進していた。砲銃声が凄まじく我軍がどんな被害を受けたか、その日本機が射ち落とされたかは知らない。

二度目というのは忘れもしない、いよいよ明日、本土へ帰れるというアナウンスで幕舎が騒然としていた三月二十五日の午後九時すぎだ。思いがけない日本機の空襲で大慌てとなった。この時は高々度で日本機の姿はよく見えなかった。火災が起き消火作業をやらされ、ようやく寝入った寝入りばなに今度は全く思いがけない地上からの奇襲を受けた。まさか組織だった日本兵がまだ残っていようとは思ってもいなかったし、全く不意をつかれて周章狼狽、飛び出した瞬間、左足首近くに電気鏝を当てられたような痛みを感じ転倒してしまった。でも海兵隊の幕舎は歴戦の兵が多いから何とか立ち直り、撃退し死傷者も少なくてすんだが、飛行場近くの幕舎にいた航空隊の連中は戦さが収まってから上陸してきた新兵が多く、慣れないこともあって多くの犠牲者を出した、と聞いた」と語っている。

ハンセン氏が経験したという最初と最後の二回の日本機の空襲が、私にとっても最初と最後の硫黄島爆撃であったことに彼との深い因縁を感じた。その後文通を続け、平成七年の日米合同慰霊祭の折も、しめし合せて島上で再会を果たしている。
かつては敵味方であり、殺すか殺されるかの戦いをやってきた仲。然しそれだけに今や何等恩讐はなく、むしろ旧戦友という思いで家族共どもつきあっている。思えば私も彼も個人的怨念で戦ったのではない。あの時の男の誰しもがそうであるように、国民として当然の義務として国の為に戦ったのだ。

以上

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