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沖縄夜間雷撃行−運命の二分間
根本 正良

大正9年6月9日生まれ。第十三期海軍飛行予備学生出身海軍中尉
一式陸上攻撃機の機長として比島作戦、硫黄島作戦、沖縄作戦等に転戦。

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この度、根本正良氏の「沖縄夜間雷撃行−運命の二分間」の記事を中攻の会ホームページに載せることになりました。昨年(平成18年)は「硫黄島夜間爆撃行」の記事をこのホームページに載せて発表させて頂きましたが、この度「沖縄夜間雷撃行−運命の二分間」を載せることになり、根本正良氏が一式陸攻の機長としていく度かの戦争末期における苛烈な航空戦闘をくぐりぬけて後、最後に機体に被弾を受け、部下搭乗員に戦死者を出し、自らも被弾負傷されながら、剛運にも帰還する事が出来た「沖縄夜間雷撃行」の記事をホームページに載せることになり、昨年載せました「硫黄島夜間爆撃行」の記事と合わせ、根本正良氏の当時の壮烈な戦闘記録を残す事が出来てまことに喜びにたえません。

残念ながら、この一式陸攻の機長として指揮を執られた根本正良氏は平成14年8月29日に逝去されました。心からお悔やみ申し上げます。
 根本正良氏は戦後、硫黄島本土返還後、硫黄島協会副会長として硫黄島墓参、遺骨収集等に尽力なされ、平成8年から福島県硫黄島協会会長として亡くなられるその日まで戦没者の慰霊に尽くされ、その間に立派な会誌「遠き島かげ」を毎年編集刊行され、硫黄島で亡くなられた戦没者の方々のご遺族と交流を続けられてこられました。そしてその間に硫黄島渡島墓参に参加されたり、また日米戦没者鎮魂の行事に参加されたりされて、戦没者への慰霊行事を続けられてこられました。また、日米合同の慰霊祭で共に硫黄島で戦った米国軍人と知遇を得て後、交遊を続けられ日米親善の為に多大の貢献を為されたのであります。

「沖縄夜間雷撃行−運命の二分間」の記事は根本正良氏が昭和41年の雑誌『丸』(光人社発行)に【運命の二分間】という表題で投稿掲載された記事であります。【運命の二分間】という事は一式陸攻が敵艦に対し爆撃するよりも雷撃する事の方が敵艦により近接し直進する事が必須な事であり、その危険の度合いは計り知れないものでありました。【運命の二分間】という雷撃で敵艦に突入して雷撃後離脱するまでの二分間がその運命を決めるものであり、さきの大戦中に敵艦船に雷撃に参加した大半の一式陸攻が被弾し撃墜されました。根本正良氏はこの二分間を剛運にも雷撃成功し、搭乗員に戦死者戦傷者を出しながら、大戦最後に生還できた一式陸攻の機長であった根本海軍中尉の貴重な記録であり、その体験を綴られて投稿掲載された玉稿であります。

この【運命の二分間】の記事を平成17年6月にご遺族が根本正良氏のご遺稿集として生前の多くの作品とともに纏められて発行された冊子「遠き島かげ」の中から再録したものであります。

(角信郎記)

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運命の二分間

昭和二十年四月十二日
最後の雷撃記録

根本 正良
(当時706空・攻撃第704飛行隊・元海軍中尉)


その出撃は連合艦隊といっしょだった!

昭和二十年四月七日のことである。

宮城県松島航空基地から、九州宇佐航空基地へ進出するとすぐに、つぎのような搭乗割り名簿が張り出された。

 

薄暮雷撃待機

一一五号            石堂中尉、佐合上飛曹組

一一六号            中谷一飛曹、加藤上飛曹組

一一三号            根本中尉(私)、橘一飛曹組

一六二号            菊島中尉、堀越上飛曹組

一六八号            篠原中尉、岡田上飛曹組

予 備               安田飛曹長、馬場上飛曹組

                〃             及川少尉、古川上飛曹組

黎明雷撃待機

石堂、佐合組。

中谷、加藤組。

根本、橘組。

 

この名簿を見るまでもなく、戦局が、ここまで押しつめられては、いずれにせよ、雷撃による出撃である。われわれ一式陸攻隊は、あらためて覚悟を新たにしていた。

なぜなら、正直のところ、私もいままでには、数回の爆撃行に参加し、そのつど敵弾を受けつつも戦果をあげて帰還できていたが、雷撃行は、今度がはじめてだったからだ。

が、それはともかく、部隊全員を見わたしても、敵が優勢となってからの雷撃体験者は一人もいなかった。言いかえれば、雷撃に行った者は、全機が還ってこなかったのだ。

事実、『一航艦全滅に関しての戦訓』の中に、〈一式陸攻のごとき、低速かつ巨大な飛行機は、すみやかにこれを廃止し……〉と記されている通り、一式陸攻は、敵の対空砲火のかっこうの目標だった。しかも雷撃のためには、近接して水平直線飛行を行なわねばならなかったので、一式陸攻は、もっともかんたんな標的として、容易に撃墜されたのだ。

いやそればかりか、一式陸攻は航続力をつけるために、翼をガソリンタンクにしていたので、どこに敵弾をうけても、すぐに発火するような状態にあり、〈一式ライター〉の異名を頂戴していた。

いま想いおこしてみても、あの苛烈な弾幕を突破して突っこんだ場合、命中して当然であると思う。これは、攻撃技術や操縦技術の巧拙などを、はるかに超えたもので、いってみれば運命というしかなかったと断言できる。しかも、その時間は二分間にすぎない。

それはギルバート雷撃戦の経験者であった隊長の伊藤少佐のことばにもよく現われている。「ねらって、射って、弾幕をくぐってぬけるまで、たった二分間。ええ、なむさん!と思って突っこむんだ。それで生きのびたらもうこっちのもんだ。弾丸(たま)は当たるまでは当たらねえんだ。ええかッ!」であった。

まさに、運命の二分間とでもいう二分間である。

■根本正良氏(左は当時)の横顔 第13期予備学生出身、鈴鹿の練習航空隊を出てから北千島、比島、硫黄島、沖縄に転戦した。
この最後の沖縄戦の対空砲火でうけた弾丸は今も体内にあるという。


■ペアと書いた記録(筆者まえがき)=零戦とともに、太平洋戦争中、もっとも多く生産され、新聞写真としても数多く掲載されてなじみの深い「葉巻」といわれた一式陸攻については、その存在も戦果も派手なものでなかったせいか、あまり問題にされていない。

一式陸攻については、数多くの悪評もあり、そのために生命を失った同僚も多いが、これは設計者である本庄技師の罪ではありません。過度の要求をした軍側にあるのです。

しかし、なんといわれようと、一式陸攻は、哨戒に、偵察に、爆撃に、雷撃に、輸送に大活躍をしたことは万人のみとめるところです。私にとっては、最初から最後までの愛機であり、かわいくてなりません。

かつて戦ったものにとって、当時のことは無関心たりえず、正しい戦闘記録が残されることは、けっして戦争を謳歌するものでなく不幸にして国に殉じた者のためにも、必要であると信じています。

この記録は、私自身だけの本意で記されたものではなく、終始生死をともにした部下のペアたちが盛んにすすめますので、何回かのペア会をひらいたときに、記録を確かめあい、誤りのない事を期して、その一部をまとめたものです。

この記録が、当時、愛機に同乗していて、死なば共にとの誓約もむなしく倒れた田中、糸賀両兵曹御遺族にでも読んでいただければ、生き残ったわれわれのせめてもの幸せと思っていたものであります。ペアは、いずれも、甲、乙、丙、特乙飛出身で、まじめで優秀なものばかりで、青森から福岡までに散在していますが、四年に一度、戦友の命日にペア会をひらいています。

一式陸攻は、だれがなんといおうと本庄技師の傑作で、この機をカンオケとして死ぬことに、われわれは満足感をもっていました。いま想うと感慨無量です。目立った戦果は挙げなかったかもしれませんが、われわれのこの記録が一式陸攻で散った多くの戦友たちの血ぬられた偉勲を偲ぶよすがになれば満足です。  

                                      (根本記)

当時私は、七〇六空の攻撃第七〇四飛行隊に所属していた。そのころは、米軍の硫黄島作戦が終わってまもなくであったが、つづいて米軍が、慶良間(けらま)列島へ上陸を開始するや、第一分隊の十二機は、ただちに出撃していった。指揮官は、帝国海軍の至宝と言われた乙の第一期生中のただ一人の生き残りである板村大尉だったが、旬日を経ずして、分隊長機をはじめ十機を失い、第.二分隊のわれわれ十二機の出動となったのだ。

「わしァ勝ちいくさばかりやってきた。わしのゆくところ必ず勝つ。わしが還ってこんようだったら、そんときは、日本もおわりですタイ」

板村大尉のしゃがれ声も聞けなくなったいま、われわれは、深刻な面持ちで、副長安田大佐のことばを聞いた。

「諸士は、連合艦隊とともに出撃するのだ (これが、戦艦大和の出撃を意味していたことは、後日にわかった)。帝国海軍軍人として、これ以上の名誉があろうか……」

副長の声は、せつせつとわれわれの胸にひびいた。われわれは、感激にひとみを輝やかせつつ、白雪つらなる東北の山々と別れを告げて、宇佐基地に進出してきたのであった。
桜花をかざして特攻機出動

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宇佐は、桜も終え、山桜の盛りであった。その山桜の枝を、飛行機の風防にかざして、宇佐航空隊の九九艦爆が、全員特攻となって離陸していった。前の年の十月、フィリピンで見て以来、久しぶりの特攻機の姿である。身のひきしまる思いであった。

異常といえば、もちろん異常な光景だが、わが隊にも、かつてない命令がすでに伝えられていた。それは、「……一式陸攻全機を、雷爆装するとともに、特攻の準備もなし来たるべし」という命令だった。

四月十二日、宇佐から鹿屋(かのや)基地へ進出して以来、毎日のように雨で、B29の雲上からの猛爆に切歯していたわれわれの上に、この日は、輝やかしい朝が訪れた。飛行場へ急ぐ搭乗員の顔には、いずれも晴れがましさがいっぱいにあふれていた。

「いよいよ、来るべきときがきた」

という、差し迫った気持ちが、みんなの胸にみなぎっていた。

指揮所は、活気にみちていて、早朝から発進していった偵第三、偵第十二の両隊の「彩雲」からの報告や、陸軍新司偵の偵察による連絡が、刻々と、壁面にかかげられた大地図の上に描きこまれていく。ブザーの音、電信、電話の音、写真現像班のあわただしい動きで、指揮所の中は、殺気だった喧騒(けんそう)にあふれていた。

その日の午前十時現在、集計された敵状は、つぎのようなものであった。

「〇八三〇、メへ一タの地点、空母一ほか、針路南、速力20ノット。コム四テの地点、空母不明、十数隻。ムノ二キの地点、空母不明、数隻。津堅島北東五カイリ、巡洋艦一、駆逐艦二。慶良問列島沖、輸送船多数。前島西、特空母一、針路北。キヤノ岬、巡洋艦、駆逐艦数隻、針路北東。残波岬―那覇間、輸送艦百八十。その西、戦艦九、巡洋艦七、駆逐艦十五。名護湾、大型輸送船十、駆逐艦五。沖永良部島の西、四十五カイリ、戦艦二、針路北。輿論島東一〇〇度五十カイリ、空母二ほか多数。沖縄北飛行場大型機三、小型六十。中飛行場、小型八十二。那覇慶良間列島間、観測機一、飛行艇六、戦闘機二十……」

つぎつぎと入る情報をもとに、われわれの出撃は、午後四時の薄暮攻撃と決まった。

目標は、残波岬沖の戦艦群である。メンバーは、前記の薄暮雷撃待機組の五機。私は、彩雲が高度九千メートルで撮影してきた寫真を見せてもらい、途中の天候をたずねた。

「高度四千にミストあり。ほかほとんど全コース快晴。垂直視界は悪いですが、水平視界は良好です」

という写真現像班の説明通り、ややミストがかかった下界、残波岬から嘉手納(かでな)湾にかけて、ベールをとおして見るように、戦艦が八隻二列に並んでいた。

いよいよ出撃準備の命が下り、一式陸攻の腹には魚雷が整備兵

の手により急ぎと取りつけられる。

 

私は、脳裏に、眼底に、この情況を、深くはっきりと焼きつけた。

午前十一時、松山の紫電隊が、約六十機、編成離陸で上がっていった。そして、やがて、この紫電隊から、ぞくぞくと電報が入ってきた。

「われ、敵F6F数十機と交戦中……」

「われ、帰途につく。戦果F6F撃墜十二機。撃破多数。わがほう未帰還二機。徳之島不時着十機……」

紫電隊の意気おおいにあがり、指揮所の中にも、いつしか緊迫した空気が流れはじめた。

つづいて午後十二時三十分、腹に“桜花(おうか)”特攻機をかかえた神雷特攻隊が、ごうごうと出発していった。鉢巻に、背中に、腕に、大きな日の丸をつけ、風防には桜花をかざしての華やかな出陣だった。

午後二時、“靖国(やすくに)”七戦隊の十機が、長い魚雷を積んで発進していった。そして、今度は、いよいよわれわれの出番であった。
一番機はすでに突入か?

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やがて、われわれの整列の時間がきた。

伊藤隊長の言う<――おれのやってきた大小八十回の合戦から割り出した>作戦計画に従い、レーダーを避けて、遠く東支那海を超低空で迂回し、嘉手納沖の薄暮時間――午後七時十五分から二十五分の間に強襲する。この攻撃方法が、綿密に打ち合わされた。

「ええか、十九時二十分、ドンピシャリに沖縄本島にとりついたら、もうこっちのもんだ。それで、敵艦をつかまえたら、躊躇(ちゅうちょ)したり、やり直しなどやらねえで、どっちからでもええ、突っこめ。肉迫強襲だ。その手一つ――」

隊長の指示を受けているうちにも、私の愛機は、金沢二整曹の手によって、念入りに整備されていた。

「分隊士、上等です」

にこにこ笑っている金沢二整曹の姿が、ひどくたのもしく感じられた。そこで私は、ひそかに持ってきた冷酒(ひやさけ)を、主操縦士の橘一飛曹から、順に、副操縦士の田畑二飛曹、偵察の佐藤一飛曹、電信の山田一飛曹、整備の田中二整曹、電探の糸賀一飛曹、射整の柳沢飛長と回し、最後を魚雷にかけて、「当たってくれよ」と、みんなで魚雷をなでまわした。もう思い残すこともない。全員が、愛機に搭乗すると、金沢二整曹が、祖国との仕切りの扉を閉めきった。

午後四時五十分、愛機の車輪は、日本の土を離れた。飛行場は、指揮所、エプロン、屋根の上といわず、一面の人の波が、別れの帽子を振っていた。この光景を、機上からふと見ているうちに、なぜかしら、熱いものが、ググッと胸もとにこみ上げてきた。感激に、われ知らず目がうるんでくる。

「いよいよ、祖国ともさようならだ。がんばってくれよ」

搭乗員たちは、黙々と働いている。愛機は、佐多岬から南西諸島へ向かった。

トカラ列島が、奇怪な姿を並べ、西風に荒立つ波のしぶきが、低空を飛び過ぎていく愛機に、いまにもはねかからんばかりであった。

やがて、真赤な太陽が、茜色の残光を海上に残して、西の海に沈み始めた。夕凪が訪れ、空がしだいに朱金色によどんできた。その空の果てに、私は、初めて黒一点の異状を認めた。

すぐに橘に知らせ、橘から、わがペアのうちで、もっとも目のいい田畑に指示された。しかし、田畑の判断は、味方の一式陸攻ということだったので、基地を一歩さきに出た石堂機と認定した。

愛機は、なおも海上を飛んだ。そして鳥島の上空を通り過ぎてまもなく、今度は後方から田中が、

「飛行機四機、追尾してきます」

と伝えてきた。そこで私は、砲塔から、このあやしい四機を確認したが、いずれも味方の九六陸攻とわかった(これは、豊橋航空隊のもので、全機未帰還となった)。

愛機は、そのまま進攻を続けた。日没が終わると、あたりが急に暗くなり、なんとなく落ちつかない気分になっていた。

そのうちに、空母のようなかっこうの伊平屋島がせまってきた。ペア全員の緊張の度合いは、無言ながらも身体に表現されている。もう列機も見えず、単機行動だ。ふと見ると、左上方に橙色の灯がともった。

<夜戦(夜間戦闘機)だ!>と、直感するのと、糸賀、田畑、柳沢の叫ぶのと同時だった。

「わかった、電探欺瞞紙(ビラ)まけ」

糸賀に命じるとすぐに、橘にも連絡をとり、二十度ほど左に飛行機をひねった。榿色の灯は右後方に去った。と、このとき、後方から山田が走ってきて、「分隊士、一番機突撃しましたッ、との連送です」

と、うわずった声で叫んだ。このときほど、〈しまった、してやられた〉と思ったことはない。

しかし、時間表を見ると、まだ七時十分である。予定通りだ(あとでわかったことだが、一番機の石堂、佐合組――のちに宇佐で爆死――は、この電を打って引き返していた。

〈気をもむな〉

と、私は自分に言い聞かせた。そして、前方を見たとき、黒ぐろと広がる沖縄本島の上空に、十数機と思われる夜戦を見つけたのだ。それはちょうど、夜空にうかぶ人魂のように、燈色の灯を発しては消し、発しては消しながら、黒い機体が、まるで.豆粒のように飛びかっている。

右へ避ければ(ほの)明るい西空を背景にすることになり、薄暮雷撃の常道に反し、攻撃のために左へ突っこめば、夜戦群の中へ突入することとなり、とっさに判断に迷ったが、今朝の航空写真を思いおこして、

「伊江島と残波岬のあいだを突っ切れ」と、橘に命じた。橘は、大きく手をあげて、〈承知〉の意を現わすと、伊江島の左に進入した。

“われ敵戦艦の頭上に在り“
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とつぜん、目の前に、佇立した灯台のような艦橋が現われた。まさしく巨大な戦艦であった。双眼鏡を持った田畑が振り向きざまにどなった。

「分隊士、艦です、戦艦ですッ!」

「よし、あれだッ」

と、私は、とっさに橘に指示した。彼は、また大きく右手をあげて、ニコッと笑い、グッと操縦桿を握りなおした。もう夜戦のことなぞ、まるで眼中になかった。全神経が、敵の戦艦に集中されている。

しかし、敵艦は、われわれに対して、ちょうど尻を向けたかっこうになっている。方位角百八十度。これでは雷撃の方法がない。

〈せっかくここまできて……〉と思っているとき、とつぜん、敵の戦艦が、左上方にものすごい弾丸の雨をはしらせ、火を吐いた。

 曳光(えいこう)弾が、()(こん)色の空を背景に弧を描いて流れ散った。(これは、当時われわれの前方を飛行中の中谷、加藤組機を射ったもので、同時刻に中谷機は、とつぜん右横方より一斉射を受け、主に胴体の後部に被弾し、尾部に搭乗の斎藤飛長は、両脚に重傷を負って同機はここから引き返している) 同時に、敵の戦艦は、この飛行機の突入を恐れたのであろう、突如煙突から猛煙を吐き、煙幕を展張しつつ右に急回頭したのである。

まさに天運といおうか。方位角は、百六十度……百四十度と、しだいにせばまり、わが方の雷撃に好都合となってきた。

しかも、敵は、まだわが愛機に気づいていない。

「全速!」

私が命じるのと、機がエンジンも焼けよとばかり増速するのと、ほとんど同時であった。

機は、ぐいぐい敵艦に接近していく。夕闇を背に、海面に浮き上がった敵艦は、一本煙突の、高いマストのまぎれもない戦艦だった。右上方の敵機も、高度差の関係からか、われわれにはまだ気がついていないらしい。

愛機は、欺瞞紙をまきつつ速力.百八十ノット、高度八十メートルで敵艦に肉迫する。まさに息づまる一瞬だった。

距離約八百メートル。敵艦が、ますますぐいぐいと迫ってくる。しかし、その一方では、なかなか迫ってこないような気もする。

飛行機の爆音ばかりがやかましくて、速度の遅いことに、焦慮する気持ちがはたらいているのだ。

私はそれでも遠距離発射をさけて、我慢に我慢をかさね、はやる気持ちをおさえつけた。

「まだ、まだ、まだ」

機は、思いきって肉迫した。敵艦との方位角は百十度ぐらいになり、私が、

「ようし」と叫ぶと、橘が間髪(かんぱつ)をいれず、

射て(テッ)!」と叫んだ。

愛機は、ぐんと浮き上がった。魚雷が発射されたのだ。

〈もういい。任務はおわった〉

私はそう思った。と、そのときである。目の前に、仁王のように迫った敵艦の甲板のあたりに、点々と赤い灯がともったように感じた。とほとんど同時に、無数のおびただしいバラ色の火箭(ひや)が、どっと流れ出してきた。それは、美しい線を描き、まっすぐに愛機めがけて突っこんできたかと見るまに、風防ガラスの直前で、上下左右に、ツツウッと分かれて飛び散った。ちょうど、粉雪が天から降ってくるような状況である。

〈すごく射ってきやがったな〉

と思ったとたんだった。すさまじい音とともに、目の前が真っ赤になり、私は、顔面と手を、(むち)ではげしく打たれたように、そして、腰と脚に、丸太棒で殴りつけられたような衝動を感じ、一瞬、息がつまった。

私は、少しぼうっとしていたのかもしれない。しかし、私は、そのかすんだ意識の中で、すぐそばに立っていた糸賀が、手に持っていた欺瞞紙を、力なく離して、くずれるように倒れたのを知った。

気がつくと、ガソリンとも潮の香ともつかぬ異様な臭気が、機内面に充満し、左下方から、なにか分からぬおびただしい噴霧が吹き上げているのを見た。敵の打ち上げる火箭は、依然として、機の両側を夜空を明るくするように流れ、機の前面で交錯していた。

〈敵艦の上を寄切(よぎ)ったな〉と思うまもなく、またも機に被弾したらしいショックが伝わってきた。しかし、愛機は、異様な爆音を立てたまま驀進(ばくしん)している。

「分隊士、命中、命中。電報、なんて打ちますか?」

山田が、私の背を、うしろからはげしく叩く。振り返った風防はしに、さっきの敵艦がかすかに見え、いましも火柱が、もとにおさまるところだった。

「見たか」

「見ました。火柱が立ちました」

「よし、攻撃終了、帰途ニツク、戦果、戦艦魚雷命中、火柱一、ワレ、機上戦死一、負傷二、一九二五」

(私は、そのとき、前部の被弾で、佐藤も負傷したと思い、報告に入れたのだ)。

命拾いをした喜劇の主人公
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気がつくと、あれほど激しかった火の流れは、もうなかった。周囲は、いつのまにか、()()()()(やみ)であった。沈黙と暗黒が、あたりをつつんでいた。〈戦いは終わった〉と、私は思った。

ふと、かたわらの肯白く横たわる糸賀を見たとき、私は暗澹とした。しかも、その糸賀の前には巨大な被弾の穴があいていた。

操縦席の計器は、全部やられて、しらじらしく(ゼロ)を指している。

「分隊士、田中兵曹、やられています」

知らせに振り返ると、砲塔の下に、顔面を黒ぐろと血潮で染めた田中がうめいていた。

「これで、しばってやってくれ」

私は、とっさに自分のマフラーをとって、山田の方に投げてやった。しかし、そういう自分も、腰から下がしびれ、ズボンから血がにじみ出していた。

飛行靴の中は、気味わるく血で濡れている。痛みより、さて、これからどうやって基地まで還ろうかと思うと、一種、名状しがたい寂しさと虚しさがわいてきた。

だれもが放心したようだった。いままでの何度もの戦闘でも、こんなことはなかった。ただ一人初陣の柳沢だけが、ケロリとしていた。「ガソリン、三番と四番なくなっています。もれているのはペラからですが、たいしたことはありません」

柳沢の報告に、私は柳沢に命じた。「パイプからの噴油(ふんゆ)を止めろ」

柳沢は、さっそく仕事にかかった。そして、一本ずつ止めては、ニヤッとして手を上げて、「一丁、あがりました」と報告する。

この男は、本当は尾部の銃座につくことになっていて、きびしくそのことを命じられていた。それが、攻撃の始まるとき、のこのこと前方に出てきてしまった。その直後に、尾部が被弾で吹き飛ばされた。まるで喜劇映画の主人公のような男だった。

しかし、私は、この柳沢に教えられた。柳沢は初陣で恐いものを知らない。いま愛機がどういう状態にあるかも知らない。知らないから平然としているのだ。

私は、機のそのときの様子をみんな知っていた。しかし、それをペアに教えたとてなんのかいがあろうか。私は、愛機の危機をペアたちに教えず、ほがらかに叱咤し、激励した。

しかし、奄美(あまみ)大島の西方を飛んでいるとき、とつぜん、橘が言った。

「分隊士、どうしてもだめです。自爆しましょう」と。

私は、さすがに暗然とした。それは、私が橘をペアの中でもっとも信頼し、主柱とたのんできたベテランだったからだ。


決死の雷撃行に出発する直前、愛機一式陸攻の前に立つ
(撮影・根本正良)

「うむ、わかった。だが、機は、もう九州のすぐ近くまで来ているのだ。突っこむのはいつでもできる。その時は、おれが言う。ともかく行けるところまで行こう」

私は、橘をはげまし、自分をはげましつつ、新たな航路を指示し、一方では、山田に命じて、ひそかに基地にあてて、「われ、不時着するやもしれず。二〇三〇」と、無電を打たせた。

田中の血潮は、機内の通路を、私のうしろまで流れてきていた。柳沢も靴がすべって歩けないほどだった。

どうしているかと思っていた佐藤が、偵察席から首だけ出し、悲壮な声で、「分隊士、分隊士」とどなった。

「おい、やられたのか」とたずねると、「だいじょうぶですか? 私はだいじょうぶです」と答える。私は、ほっと胸をなでおろした.

しかし、コンパスをやられていなかったのが、われわれにとって幸いした。ただ、水平儀がだめになっていたために、飛行機が、ひどく傾いて飛んでいるような錯覚にとらえられた。とくに、黒い雲の中に星が入ると、それが下界の島の灯に見え、すごく傾斜したように思う。

もはや蓮命というほかなし

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苦闘かくて、二時問三十分。われわれは、やっと鹿屋の灯を見つけた。続いて帰投予定地の宮崎基地に、午後十時三十二分、三.度も着陸をやり直してのちに、ようやく着陸した。

基地の連中は、ここまできてだめかと、目をおおっていたというが、愛機は、ブレーキが被弾して使用できず、最後には、飛行場のエンドに激突するところだったが、さいわいにも右脚に小石が当たって、そのために機が急旋回したので助かったのだ。

電報によって、基地には救急車が用意されていて、すぐかけつけてきてくれた。だが、糸賀はすでにこときれていた。そして、はじめて糸賀の死を知った橘が、怒ったように糸賀のからだを揺り動かした。だが、糸賀のからだは、もう冷たかった。

田中は、頭部に拳大(こぶしだい)の穴があいていて、赤鬼のように血潮をかぶっていた。

山田と佐藤も微傷を負っていた。

敵弾は、そのほか右のプロベラのど真中を射ぬき(これもちょうど真中でよかった。もうすこし先端ならペラが折れ、根元ならエンジンを貫いた。いずれにしても致命的だった)、四番タンクは火を発して、約一メートル半ほど燃えていたが、これも奇しくも中途で消えていた。

三番タンク後面の一発は、火を発せず、ガソリンの漏出だけですんでいた。このほか、尾部に二ヵ所被弾して、尾部の銃座はめちゃめちゃとなり、もう一ヵ所は、あやうく操縦索を切断するところだった。動力銃架(砲塔)に命中した一発は、田中を傷つけ、操縦席下の一発は、糸賀を殺し、私を負傷させ、計器全部とブレーキをこわしてしまったのだ。

機内は、まさに修羅場であった。七発の被弾箇所は、いずれもあと数センチずつずれただけで、とりかえしのつかない状態になるところだったのだ。

この“奇蹟的な生還”をとげた外部にまで血潮の流れ出した愛機は、後日、司令以下の供覧をうけたという。

田中は、その後の手厚い看護にもかかわらず、翌々日の午前二時、出血多量で戦死した。その当時の、横穴式の病室の模様は、描くにたえない。

七戦隊の“靖国”その他の機が、やはり被弾して帰還し、両眼を射貫かれたもの、手や足を吹き飛ばされた者などが、つぎつぎと運びこまれ、「水ッ、水ッ」「苦しいッ、痛いッ」の喧騒が静まったときには、ほとんどの負傷者は死んでいた。

くり返すが、敵は物量にものをいわせて射ちまくってくるので、けっして狙っているのではない。弾丸の幕を張る米軍の弾幕射撃を突破すれば、当たって当然だったのだ。

私の短い戦闘の体験でも、まったく被弾しなかったということは、ただの一度もなかった。が、ただそれが、致命的なところに当たるかどうかであったのだ。

それは、もう運命というしかない。しかし、すべてを運命としてしまうことによって、技術と精神の向上に努めなかったならば、これもまた自己の破滅である。つねに刻苦努力しなければ嘘だ。そのことによって、運命は、ある程度まできりひらいてゆける。

「われわれは、運命をきりひらき、そして、その運命に支配される」

それが、戦闘によって得た私の人生観である。しかし、雷撃の体験は、得がたい体験ではあったが、けっして二度とふたたび、したくない体験であることは.言うまでもない。

この日、菊島機は、本島沖で撃墜され、まともに雷撃できたのは、われわれだけであった。また、こののち、私の知るかぎりでは、一式陸攻による雷撃は、終戦まで行なわれていない。われわれが最後であったのだ。

戦いすんで二十年。橘は、現在、田川市で肉屋さんとなり、田畑は枕崎市で漁師をしている。山田は、日本エレベーター浜松支社長。佐藤は、茨城県警。柳沢は、八戸市で花万食品会社を経営している。篠原は、航空自衛隊。安田、及川少尉らは、いずれもその後、沖縄爆撃で戦死した。

 

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