「来た!!」って言うので。その時、実は9日の日にね、偵察機がね、2隻とも戦艦がシンガポールにおるっていうのを、午前11頃電報を送って来たんです(結果としてこれは誤報であり、8日の19時05分、敵主力艦隊はシンガポールを出港していた)。それで「シンガポールの中にいるなら、シンガポールの軍港を攻撃をしろ」と命令が出てね。
22航戦司令部は、9日の午後ね、お昼が済んでから司令部でね、シンガポールの港におる船の攻撃に対する打ち合せをやったんです。各航空隊から中隊長以上が出席して打ち合わせをしたんです。
その時にね、あそこは狭いから、雷撃ではなく爆撃にしようと決まったんです。
そこでね、「せっかく行くなら[破壊力の大きい]800キロ爆弾を使おう。」って言ったら800キロ爆弾が準備してなかったんです。
「800キロを持っていこう」、「いや800キロはないんだ」と。
「それなら1発でいってね、なかなか当たらんから2発にしたい。250キロを2発もっていって、一回やりそこなったらもう一回やりたい」と私が提案してね。
「じゃぁ、250キロをもっていこう」と。そういうことになったんです。
畔元中尉
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2航過(航空機で2回爆撃目標を通過すること。即ち、同じ爆撃目標に対して2回爆撃を行うこと)でやりたいと。そしたらね、各部隊の一任ってことになってね。私はすぐ司令部からツドウムへ電話してね。畔元中尉(畔元一郎氏、鹿屋空第3中隊第2小隊長)、海兵66期ですが、私の分隊士をやっておりまして、雷撃待機ですから「250キロ2発に換装して準備しろ」って電話したんです。
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サイゴンからツドウムへ帰るのは、バスで約30分かかるんですが、帰ったらね、「中隊長、敵が出てきて、攻撃命令が出ました」っていうんです。
そん時の敵の位置やらなんか見てね、だいたい日没30分前にね、敵にとっつけるだろうと思ったから「雷撃ではなくて、爆撃で出発していいですか?」って司令部に聞いて「そのままでいい」と言われたので、私はすぐに飛び出したんです。
他は爆装(爆撃装備)のままでしたから雷装して出発ってことになるんです。それで1中隊と2中隊は大分遅れて出発。私は先に出た。カモー岬(ベトナム最南端の岬)までいったらね、天気が悪いんですよ。それでも行ける所までいったんですけど。とても行けなくて、引き返したんです。それで、カモー岬に着く前に、爆弾を海に投下したんです。それはね、夜間着陸するのをしくじると、爆弾が爆発してみんなやられますからね。
支那事変(日中戦争)のときもね、そういう時は爆弾を落としとったんですから。 そいで私はね、爆弾を落として無事帰ったんです。あと2個中隊が帰ってきますから、その時は私が指揮官をしてね。うまく着陸コースに入った飛行機だけを着陸させて、うまくないのはやり直しさせて。2機くらいやり直しさせて。全員無事着陸。それは、私の自慢ですけどね(笑)。
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