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 マレー沖海戦を聞く 〜壹岐春記氏インタビュー〜
壹岐 春記
(海兵62期)

明治45年(1912年)鹿児島生まれ。海軍兵学校六二期。高雄空、十三空、鹿屋空、新竹空、宮崎空、攻撃四〇六を経て終戦時豊橋空飛行長。少佐。マレー沖海戦では第三小隊隊長としてレパルスに雷撃を行う。総飛行時間は3441時間。

はじめに

世界中で長年の争点であった大艦巨砲主義と航空主兵論の優劣に対して、初めて明確な答えを突きつけることになったマレー沖海戦であるが、
世界の軍事戦略に革命をもたらした出来事に中攻隊はいかに臨んだのだろうか。
実体験者である壹岐氏へのインタビューにより、その実態をみなさんに感じていただきたいと思う。

聞き手:鬼頭佳嗣

ツドウム基地

マレー沖海戦の序章となるツドウム基地※1への進出からお話いただけますか。
昭和16年(1941年)12月2日付の発令で、

鹿屋航空隊(以下鹿屋空とする)の3個中隊がマレーに派遣されることになりました。
それで4日にね、台中※2を出てサイゴンに向かったんです。
しかし、天候が悪くて引き返したんです。それであくる日の5日に出て、それでまた天気が悪くて、1中隊と2中隊は海口※3に不時着したんです。
私は昭和13年(1938年)の暮れに海南島を偵察していて、三亜※4もよく知っているので、南の方の三亜に行って泊まった。それで6日の朝ね、早く出て。それで[海南島の]北の方は天候が悪くて。陸上だから電話が通じますからね、電話して。「三亜は天気がいいので出発します。私の飛行隊は1機天候偵察を兼ねて、出しますから、その天候を聞きながらついてきてください。」って。私が先行してね、サイゴンに向かったんです。
※1.現ベトナム社会主義共和国にあったフランス軍の航空基地。
  昭和16年(1941年)7月にフランス政府との交渉妥結により日本軍が進出
  (いわゆる南部仏印進駐)し、日本陸海軍の航空基地となった。
  南部仏印とはフランス領インドシナの南部のこと。現在のベトナム社会主義共和国、
  ラオス人民
民主共和国、カンボジア王国が該当する。
  壹岐氏は「ツドウモ」と発音されるが、本稿では一般的な表記のツドウムにしてある。
※2.台湾の台中にあった日本海軍の航空基地。
※3.現中華人民共和国海南島の北部にあった日本海軍の航空基地。
※4.現中華人民共和国海南島の南部にあった日本海軍の航空基地。
鹿屋※5が出発基地ではなかったんですね。
鹿屋ではないですよ。11月20日付での開戦準備の配置が台中なんです。一式陸攻72機と輸送機1機が台中に行って、待機しておったんです。鹿屋航空隊の作戦発動基地は台中だったんです。11月30日の日に、急に鹿屋航空隊の3個中隊がね、マレーに行くっていう内示があって。実際には12月2日に発令しましたが。
発令に基づいて、4日の日に、台中を出て、サイゴンに向かったのですが、天気が悪くて引き返して、あくる日の5日に出発して。私は三亜に行って、あと2個中隊は海口に着いて。それで三亜から6日の日に、私が最初に発ってサイゴンに着いたんです。サイゴン基地に着いたら、1時間くらいたってね、後から来た1、2中隊が着いた。

ツドウムでの壹岐氏
それでサイゴンで一緒になって22航戦※6の指揮下に入った。あくる日の7日から7、8日と、南シナ海を1個中隊づつ午前1中隊、午後1個中隊、3個中隊が交代で索敵することになって。それで7日にツドウムに移ったんです。
もともとツドウムの基地はね、フランスの空軍が使った基地でね。滑走路が1200mだったんですね。それで日本軍が行ってから1400に伸ばした。しかしね、伸ばしたところが、うまくできないってことでね、7日まで待たされたわけです。
※5.鹿児島県鹿屋市にあった日本海軍の航空基地。現在は海上自衛隊鹿屋航空基地。
※6.航空隊の編成の一つ。美幌海軍航空隊、元山海軍航空隊によって編成されていた。
飛行場整備がぎりぎり開戦に間に合った。
ぎりぎりできたので、7日の日に27機全部行ったんです。全部行ったらね、私の列機がね、一式陸攻はブレーキが非常によく利きましてね、「グッ」と踏むと「ポッ」とお尻を上げるんですよ。それが「ドーン」と落ちるわけです。
当時は、支柱が弱くて折れちゃったんです。それでね、それをすぐ言って補強してもらう。ああいうとき海軍は早かったですね。
すぐ補強した。また操縦者にも同じことをしないように注意して、飛行場も填圧して舗装しました。
鹿屋空は対米戦に備えて月明を利用した夜間飛行訓練を行ったんですよね?。
そうです。藤吉司令(藤吉直四郎鹿屋空司令)の命令ではなくて、多分、艦隊司令の命令だったと思いますよ。それを受けた藤吉司令の指示ですから。
12月8日の攻撃の準備をね、10月と11月にやったんです。10月はね、済州島へ向けて夜、鹿屋を出発して、済州島に行って、済州島から帰る。こういう訓練。それが12月8日の月齢に合わせた同じ日なんです。
11月には同じように、横須賀に行ったんです。鹿屋を夜出発して、編隊で行って横須賀航空隊まで行って帰ってくる。そういう訓練を2回やったんです。台中からの出撃を想定して。そのときはまだ台中って決っていませんでしたけど。
台湾から出発して、それでニコルス※7をやるっていう、その訓練を。編隊を組んで夜出て夜帰ってくる。
※7.フィリピンにあったアメリカの主要航空基地。
壹岐さんは12月8日にシンガポール爆撃に行かれてないんですよね?。
行ってません。12月8日はね、鹿屋航空隊は向こう[の主力艦隊]が出てくるつもりで、3個中隊雷撃待機だったんです。ただし、1個中隊は8日の日も索敵に行ったんです。2個中隊は陸上で待機して、1個中隊は索敵したんです。
壹岐さんは雷撃待機の方だったのですか?。
私は待機の方です。
9日は攻撃に出られたけども天気が悪かったんですよね?。
9日は天気が悪くてね。それも急に出たんですよ。「敵が来た」って言うので出たんですけどね。
何時にですか?。
あれはね、実際はね、潜水艦の伊65号が敵を見たのがね、15:15に見たんです。それで15:15に「敵レパルス型2隻見ユ」って電報を打って来たんです。それが実際に22航戦に届いたのが夕方17:30だった。
伊号が打った電報は15:15ってことですよね?。
15:15。午後3時15分です。
実際に着いたのが17:30だったので夕方から雷撃ってことになったんですね。実際に飛び立ったわけですよね?。
「来た!!」って言うので。その時、実は9日の日にね、偵察機がね、2隻とも戦艦がシンガポールにおるっていうのを、午前11頃電報を送って来たんです(結果としてこれは誤報であり、8日の19時05分、敵主力艦隊はシンガポールを出港していた)。それで「シンガポールの中にいるなら、シンガポールの軍港を攻撃をしろ」と命令が出てね。
22航戦司令部は、9日の午後ね、お昼が済んでから司令部でね、シンガポールの港におる船の攻撃に対する打ち合せをやったんです。各航空隊から中隊長以上が出席して打ち合わせをしたんです。

その時にね、あそこは狭いから、雷撃ではなく爆撃にしようと決まったんです。
そこでね、「せっかく行くなら[破壊力の大きい]800キロ爆弾を使おう。」って言ったら800キロ爆弾が準備してなかったんです。
「800キロを持っていこう」、「いや800キロはないんだ」と。
「それなら1発でいってね、なかなか当たらんから2発にしたい。250キロを2発もっていって、一回やりそこなったらもう一回やりたい」と私が提案してね。
「じゃぁ、250キロをもっていこう」と。そういうことになったんです。


畔元中尉
2航過(航空機で2回爆撃目標を通過すること。即ち、同じ爆撃目標に対して2回爆撃を行うこと)でやりたいと。そしたらね、各部隊の一任ってことになってね。私はすぐ司令部からツドウムへ電話してね。畔元中尉(畔元一郎氏、鹿屋空第3中隊第2小隊長)、海兵66期ですが、私の分隊士をやっておりまして、雷撃待機ですから「250キロ2発に換装して準備しろ」って電話したんです。

サイゴンからツドウムへ帰るのは、バスで約30分かかるんですが、帰ったらね、「中隊長、敵が出てきて、攻撃命令が出ました」っていうんです。
そん時の敵の位置やらなんか見てね、だいたい日没30分前にね、敵にとっつけるだろうと思ったから「雷撃ではなくて、爆撃で出発していいですか?」って司令部に聞いて「そのままでいい」と言われたので、私はすぐに飛び出したんです。
他は爆装(爆撃装備)のままでしたから雷装して出発ってことになるんです。それで1中隊と2中隊は大分遅れて出発。私は先に出た。カモー岬(ベトナム最南端の岬)までいったらね、天気が悪いんですよ。それでも行ける所までいったんですけど。とても行けなくて、引き返したんです。それで、カモー岬に着く前に、爆弾を海に投下したんです。それはね、夜間着陸するのをしくじると、爆弾が爆発してみんなやられますからね。

支那事変(日中戦争)のときもね、そういう時は爆弾を落としとったんですから。   そいで私はね、爆弾を落として無事帰ったんです。あと2個中隊が帰ってきますから、その時は私が指揮官をしてね。うまく着陸コースに入った飛行機だけを着陸させて、うまくないのはやり直しさせて。2機くらいやり直しさせて。全員無事着陸。それは、私の自慢ですけどね(笑)。

魚雷を抱いたままの夜間着陸だけにやはり「ゆっくりやれ」という指示を出されたわけですか。
そうです。ゆっくりと次々ね、無事に着くように。とにかく魚雷を抱いたまま着陸するんですから。
ツドウムでの夜間飛行は初めてですから。他では訓練してますけど、この基地においては初めてだから。「慎重にやらないかん」っていう気持ちが強かったです。
壹岐中隊は爆弾を落としてから着陸したことにより精神的にも技術的にも効果があり無事だったと言えますね。
ええ。爆弾を落として帰ったことについては、誰も何も文句は言わないんです。
夜で、なお且つ悪天候で着陸の条件が悪いということで。
そうなんです。
ツドウムは雨が降っていたのですか?。
その時は、基地は降っていません。天気が悪いだけでね。
9日の17:30時点で英艦隊がシンガポールの軍港にいなくて外に出ていることがわかった時はどういうお気持ちでしたか?
「とにかく英艦隊を自由にさせてはいかん、行かせてはいかん」という気持ちでした。あん時攻撃に出たらね、生きて帰れると思ってないんですから。「雷撃に行ったら60〜70%はやられる」って言われてましたから。
敵に護衛の戦闘機が付いているかどうかわからなかったのですか?。
護衛の戦闘機はあまり気にしなかったです。
壹岐さんはあまり気にされなかった?。※8
はい。
※8.マレー沖海戦における戦闘機に対する警戒は人によって異なる。
   防弾が脆弱で戦闘機より速度が劣る中攻にとって、敵戦闘機は相当な脅威であった。

1941年12月10日
明けた12月10日の日は朝から出撃されたんですよね?。
朝8:15です。
壹岐さんは、何番目に発ったのですか?。
中隊順に1中隊、2中隊、3中隊と。私は鹿屋航空隊の第3中隊ですからね。緩やかな編隊でね。高度3000mでね、187度南下しました。
敵がなかなか見つからなかったんですよね?。
全然見つからなかったんです。
お気持ちはいかがだったのでしょうか。
とにかくね、前の晩は天気が悪かったのが、快晴でしょ。全コース快晴なんですよ。それで鼻歌混じりですよ。
一式陸攻の伝声管※9を誰にも聞こえないようにして大きな声で、「♪今日の戦は手強いぞ♪」ってね(笑)。
進撃中はマレー半島に雲がかかってたんですよ。11時45分まで南下しても見えないから移動時間と推測できる敵位置から「もう見えるかな・・・」と思っていました。
途中で駆逐艦のテネドス(当日4隻いた駆逐艦の一つ。燃料の関係により単艦で途中引き返した)がいたんですが「駆逐艦がいるな〜」って見過ごして(笑)。
※9.管の端に口をあてて話した声を、他の端で聞きとるための長い管。航空機で使用。
   中攻の機内はエンジンの爆音が大きかった。
元山航空隊(以下元山空とする)の第3中隊は攻撃してしまった。
二階堂君(二階堂麓夫氏、元山空第3中隊長)なんか、「我敵主力ヲ爆撃スル、命中セズ引返ス。」と電報を打った(笑)。
その電報を受けて、「あれ(テネドス)を爆撃したな」って思ったんです。
シンガポールまで行かれて引き返したのですか?。
[一式陸攻の]行動半径がね、700マイル(約1126km)ですか。
11:45の時点で行動半径一杯一杯まで行ったんです。
しかも右の方はシンガポールの島が見えているわけです。僕は「いかん」と思って引き返して。途中で敵の位置が入った電報がきましたからそれをチャート(航空用の地図)に入れるとね、敵の位置がマレー半島の陸上に出るんです。
一歩わからんもんだから、基地でも同じだったんでしょう、藤吉司令がね、司令部に電話して「敵の位置を平文で知らせてください」って要請してくださった(これは海戦後に壹岐氏は知った)。
敵の位置が入った電報をキャッチできない機もあったんですよね?。
私のところは取れましたが、実値をいれるとね、陸上に敵の位置がきてしまう。それはおかしいから了解しなかったわけです。偵察員が[電報を]持ってきても、「そんなばかなことはないじゃないか。もっと精査しろ」って言いました。
そのうちに地上からね、平文で来て。その時の私の位置からみて真東くらいのところです。それでそこに向かったんです。
行ったらすぐ予定の位置にいましたからねえ。
敵の発見の平文を受け取った時のお気持ちはどうでしたか?。
その時はね、特別なものはなく、「いよいよ敵が発見できた」ってだけでしたね。支那事変(日中戦争)のときもね、そういう時は爆弾を落としとったんですから。
それで私はね、爆弾を落として無事帰ったんです。あと2個中隊が帰ってきますから、その時は私が指揮官をしてね。うまく着陸コースに入った飛行機だけを着陸させて、うまくないのはやり直しさせて。2機くらいやり直しさせて。全員無事着陸。それは、私の自慢ですけどね(笑)。

壹岐大尉と宮内少佐
そんで飛んどったらね、だいたい敵がこの辺におるってことがわかっていますからね、それでね、高度3000mで接敵していったら、水上機を見たんです。
右前方に水上機を見たもんだから、私はすぐに指揮官の宮内少佐(宮内七三氏、鹿屋空指揮官)にね「この下に敵がいる!!、
敵がいる!!」って合図したんです(操縦席から指揮官機に向けて身振り手振りで)。3個中隊で進撃していて私が最初に水上機を見たんですよ。水上機がおる方は、艦隊がおると思って。向こうは(宮内少佐)わかっとったんでしょうね。
すぐ「オッケー!!」ということで突撃体制に入った。
すぐにバンクし、降下していったんです。それはだいたいね、あらかじめ打ち合わせてあって、1中隊が直進して高度を下げる、2中隊が左に10度、3中隊が右に10度くらいに開いて降下するって、打ち合わせていましたから。その通りやって。
それで雲の下、300mから400mの高度で「ズーッ」と行って。そしたらね、艦隊が来るのが見えましたからね。
距離は10マイル(約16km)くらいだった。雷撃訓練するときにね、敵の10マイルくらいのところから襲撃運動ってのをやるんです。基礎どおりだったんです、ちょうど(笑)。そういうことになって、10マイルくらいだったから、うまく下りたと。
1中隊、2中隊、3中隊って、順番にいって。事前にね、1中隊は1番艦(プリンス・オブ・ウェールズ)、2中隊は2番艦(レパルス)、それから私は討ち漏らしの方って打ち合わせしてたんです。中隊長3人で。
それで、どんどん行って。そしたらこう中隊の9機が1本棒になるわけです。
単縦陣※10で。
※10.元々は軍艦が縦に長く一列に並ぶ陣形のことであるが、雷撃体制では中隊長機を
   先頭に縦に1本棒になって突撃する。1個中隊は9機で編成されるため、
   中隊の単縦陣は9機が真っ直ぐに海面スレスレを飛行する形となる。
単縦陣で、9機で「ズーッ」と行くわけです。まず最初に見た時、駆逐艦が3隻あって、その次にプリンス・オブ・ウェールズ、その2500mくらい後ろにレパルスがいたんです。だんだんだんだん動いてますけどね。
それに向かって1中隊、2中隊が近付いていくのが見えるんです。見とったら、敵がどんどん撃つんですよ。もの凄い対空砲火です。
それでどんどん弾片が落ちてきてね。その着水時の水煙がもの凄いんですよ。そんなの見たことないんですよ。
その時私は雲の下300〜400mくらいに位置して、雲に隠れたり、出たりしながら近付いてね。そのうちに見とったら、1中隊の雷撃命中の水柱がね、プリンス・オブ・ウェールズの艦橋より後ろの方に「バーン!!」って上がったんです。
それは大きな水柱でね。そういう水柱はね、日露戦争の日本海海戦の油絵を見たことがありましたが、艦橋よりも上がったのを見て、あの油絵と同じなんですね。生まれて初めてでしょう、現物を見るのは。「うわ〜すごいなー、当たったなー」って。
生まれて初めてでしょう、現物を見るのは..」
またすぐにプリンス・オブ・ウェールズの艦尾に1発当たった。「これはまた当ったか、プリンス・オブ・ウェールズはもういい。私は2番艦でいい」と思ってね。2番艦に向かっていった。
南下している敵に対して緩やかにだいたい北東へ向かって射角を得ようとしていたんです。

私はレパルスの右舷から入るつもりだったんですが、急にレパルスが右へ(北東方向)回ったんです(笑)。結果として私の前方は左舷になっちゃったわけです。
右舷から入ろうとしたら、突然右に回ったので目の前にあるのが左舷になっちゃったんですね?。
そういうことなんです。そういう風になって、私は左舷から行くようになりましてね、急に回ってきたもんだから。
後からついてきた私のところの2小隊と3小隊はレパルスの急な右旋回に対応して、射角を得るためにさらに右舷へ回り込んで私と反対側の右舷から雷撃した。期せずして1小隊と2、3小隊で挟撃する形になったんです。
壹岐さんの1小隊と後続の2、3小隊と距離の差があるから、その間にレパルスが入る形になって挟撃したってことですね?。
そうです。
雷撃の様子はどうだったんでしょうか?。
雷撃はね、敵艦との距離が1000mくらいでね体勢を整える
10マイルくらいから1本棒になって...」
[正に発射可能な体勢をとる]わけですよね。
10マイル(約16キロ)くらいから1本棒(単縦陣)になって、だいたい1000mで雷撃体制にならなくてはいけない。
だいたい10マイルから高度を「ズーッ」と下げていくわけです。相手を見ながら、自分の飛行機をそれに合うようにもっていくわけです。
臨機応変に各機の単機行動になることもありますが、これがずっと訓練しておったやり方です。
10マイルくらいから高度を下げて、壹岐さんは実際にどれくらいの高度で投下したのですか?。
実際に雷撃したのがだいたい30mくらいだったと思います。
割りと高い?。
割と高く。開戦直前は10mで訓練していましたけどね、やっぱり気持ちとしてはね、従来訓練しておった30〜50mくらいがやりやすいわけですね。
それがハワイ攻撃を想定して浅深度雷撃といって10mで訓練した。ハワイに備えて訓練していましたからね。
投下した後に2番機、3番機が撃墜されてしまったのですか?。
操縦の仕方から言いますとね、自分で操縦しながらね、レパルスの動きを一生懸命見ているわけですよ。それで雷撃の射角は艦首から15〜90度が一番良いんです(もちろん狙いは舷側である)。
それで敵艦との距離が800m〜1000mくらいの位置に自分の飛行機をもっていく。そういうところへもっていくのが、雷撃のやり方なんです。
私は操縦をしながら、そういう位置に着くようにした。距離は目測ですから。測距儀はないですから。矢萩兵曹長(矢萩友二氏、壹岐機メイン偵察員)がね、距離と高度を「1500、50」、「1200、40」って言うわけです。それを聞きながら、私は参考にするんです。
自分でね、だいたい距離800m、高度30mということころでね、一式陸攻は操縦席にボタンがありますから、ボタンを押して魚雷を発射した。落としたら、もう全速で避退する。どんどんどんどん撃ってきてますから。もの凄いもんです。
敵甲板に機銃掃射を浴びせながら、遠ざかるように左へ旋回している時に前川上飛曹長(前川保氏、壹岐機サブ偵察員)がね、「当りました!!」っていうんですよ。そしたら2番機がね、私が回っている右前方でね、レパルスからだいたい150mくらい手前で自爆※11しちゃったんです。そしたらまた「当りました!!」って。
今度は3番機がね、そこから50mくらい離れたところでまた自爆した。私は一生懸命全速で上昇しているところです。私は操縦しているから命中が見れないわけです。前川上飛曹長の報告の「分隊長あたりました!!」、「また当りました!!」っていう声が今でもまだ耳に残っています・・・。
帰ってからの報告はね、「2番機と3番機の魚雷が2本当たりました。」って私は報告したんです。
※11.被撃墜のこと。日本海軍では敵機に撃墜された場合、それは敵の戦果ではなく
   自ら潔く死を選んだこととした。体当たりによる必死を前提とした特攻とは異なる
   ことに注意。
英霊に華を持たすということですね・・・。
はい。それでね、どんどんレパルスが撃ってくるわけですよ。レパルスの機銃員がどんどん撃つ。見たらね、甲板にね2人くらい寝そべっとったのか?死んどったのか?見たんです。「向こうもやられたな〜」って思ってね。
それでもどんどんどん撃ってくる。瞬間的にね「さすがイギリス海軍、見敵必戦だ」っていうのが頭に浮かんだ。イギリスの伝統精神ですから。「イギリス海軍、よくやるな〜」って気がしましたね。
それで、2000mくらい高度をとったところでレパルスが左舷から沈んでいきましたから。も〜うたまらない、「やった!!!」っていうことでね。そのころね、2小隊と3小隊が私のところについてきてね、編隊を組んだんです。今度はね1機3機3機の7機編隊でね。
ちょうど敵の防御砲火が来なくなったところで。そしたらもう手を上げて「万歳!!万歳!!」ですよ。それから、飛行機の中に非常糧食のぶどう酒をもっていますからね。それでみんなで乾杯してね。「乾杯!乾杯!」って。
それでやって帰っていったらね、次はね、プリンス・オブ・ウェールズが私の見たところではね、7ノットでね、ゆっくりシンガポールに向かって動いているので、それを「早く帰って雷撃せないかん」って思ってね。私はすぐそう思ったんです。それで基地に向かっとったら、
武田大尉(武田八郎氏、美幌空第2中隊長)がね、「プリンス・オブ・ウェールズはまだシンガポールに逃走中、とにかくこれを撃沈されたい」っていう趣旨の電報を打って いるんですよ。「同じことを考えているなー」って思って、そう思って基地に向かっとったら、
そのうちに、帆足少尉機(マレー沖海戦当日、最初に敵艦隊を発見し、その後も接触を続けた。「敵主力見ユ、進路六十度 一一四五」は有名)の「プリンス・オブ・ウェールズ沈没」っていう電報を傍受しましたから。また万歳ですよ。「いや〜良かったな〜」って。
それで九六陸攻は巡航速度※12が120ノット(時速約222キロ)ですが、一式は150(時速約278キロ)ですからね、私が一番最初にツドウム基地に帰ったんです。そしたらもう戦況が全部わかっていますからね。帰ったらね、みんな喜んでね、私を胴上げするの。
それで、一様それが終わって列機も全部集まって戦況を報告して。そん時私は、「2機を失いました。2番機、3番機の雷撃の命中を確認しました。」それで、終わったんです。
※12.船舶や航空機がなるべく少ない燃料消費で、できるだけ長距離または長時間航行
    できる、経済的で効率のよい速度。
うれしい気持ちと悲しい気持ちが入り混じり、あまりに正反対の心中の混沌は言葉に余ると察します・・・。
そうですよね・・・。まだ今でも思い出しますよ、2機の操縦員の顔を。桃井君(桃井敏光氏)と田植君(田植良和氏)。

確認ですが、壹岐さんは雷撃後、レパルスを直進で飛び越えずに左旋回で避退したんですね?。
飛び越えないで左舷から約300mくらいのところを、最も近いときは300mくらいだったと記憶しています、全速で回って逃げたんです。


壹岐氏の航空記録に残された昭和16年12月10日の記事

戦い終わった戦場へ表敬と慰霊の花束を捧げたお話を聞かせてください。
自爆した2機以外には私の中隊はそれほど被害はなかったんですが、他の中隊は被弾があったり、不時着したり飛行機が不足しましたからね。あくる日、私は命ぜられてね、高雄航空隊※13に飛行機の補充のために行ったんです。
それでそこに2日間いました。私はもともと21航戦※14ですから、司令部に呼ばれましてね。「戦況報告しろ」っちゅうことで、司令官に報告してね。「こうこうこういう状況で撃沈しました」って。
そしたら「東郷」っていう料理屋がありましてね。台湾に。そこでご馳走してくれました。それから飛行機を整備してね。飛行機は試飛行しなくてはいけませんから。新しい飛行機を整備して、9機編隊で行って、また9機編隊で帰ったんです。11日に行って12、13日といて14日にツドウムに帰ったんです。
それで、また整備しましてね。16日には全部整備できましたので、18日に命令でね、鹿屋航空隊は、アナンバス諸島のシアンタンにイギリスの無線電信所があるんですが、そこにいい港があってですね、そこをシンガポール攻略の前進基地にするという南方部隊の計画でね、無線電信所の爆撃を命ぜられたのです。
それで、その計画を見ると、「行くときは3個中隊で行って、爆撃は各中隊ごとやって、終わったら、各中隊ごとに帰る。」こういう内容でしたし、「敵戦闘機も、高角砲もないので、無事行ける」と思ったので、前川上飛曹長に花束を2つ作るのを命じました。
18日の日に、花束を2つ用意して出撃し、爆撃も予定通り終わりましたから、帰りにね、9機編隊で高度300mに下げて、まずレパルスの沈んでいる位置に行って、そこで花束を投下しました。私の戦死した部下とそれでもう1機、元山航空隊の自爆がありましたから。味方の霊を慰めて献花して、それからプリンス・オブ・ウェールズのところにいって同様に献花した。
私はイギリス側の誰が死んだかよくわからなかったのですが、イギリスの将兵がね、最後まで、沈むまで撃ち上げてきた敢闘精神に対してと、霊を慰める気持ちを込めて花束を投下した。それで帰ったんです。
※13.台湾の高雄にあった日本海軍の航空基地。
※14.航空隊の編成の一つ。鹿屋海軍航空隊、東港海軍航空隊、第1海軍航空隊によって
    編成されていた。
プリンス・オブ・ウェールズやレパルスの位置はわかるんですか?。
上からね、高度300mから見ますとね、位置がわかるんです。沈んでる船が見えるんです。
水が透き通っているから、見えるんですか?。
そうです。あそこがね水深が60〜70mくらいなんです。それで艦橋までの高さが40mくらいでしょ。そうすると水面からね20mくらいだから。すごく見えるわけです。
[沈船を]確認してそこへ花束を落した。
しっかりと確認されて。
ええ、確認してね。それがね、昭和18年(1943年)ですか、国民学校の初等科国語の教科書に載りましてね。「 [マレー沖海戦の]翌日、花束を投下した」と、名前は出ていませんけどね。
当時は毎日新聞の記者がね、報道員としていましてね。その人がね、翌日として報道したのではないかと思うんです。それでそれが、教科書に載ったんではないかと思います。実際は12月18日です。18日の午後です。
このことはね、非常にいろいろ反響が多くてね。戦後、何度もイギリスから取材を受けました。
壹岐さんは、マレー沖海戦の前は、航空攻撃だけで、対空砲火で防御しつつ自由回避する戦艦を沈められると考えていましたか?。
私たちはね、雷撃だけで戦艦を沈められるとは思っていなかった。私自身は全然思っていなかった。
まぁね、動けなくはなるだろうと、船がね。だけど後はね、砲撃とか駆逐艦とか潜水艦の魚雷で沈めることになるのではないかと。それともう一つ、飛行機の60%から70%はやられると。この2つはね私たちはそう思っていましたね。
私は日本の日向※15の改装時の バルジ※16をよく知っていますからね。それで不沈戦艦として名高いプリンス・オブ・ウェールズでしょ。イギリスの艦がね、私たちの航空攻撃だけね、沈む、目の前で沈むとは思っていなかったですね。
※15.日本海軍の戦艦。大正7年(1918年)就役。昭和20年(1945年)の
   呉軍港空襲で大破着底した。壹岐氏は昭和11年(1936年)に少尉任官と
   同時に日向で甲板士官(艦内全てを総括的に把握する任務)に就いた経験がある。
※16.艦の舷側の喫水線付近に設けられたふくらみ。商船では復原力の向上に、軍艦で
   は魚雷防御に効果がある。
護衛の戦闘機を全く付けない戦艦と、戦艦や潜水艦などの艦砲射撃や雷撃を全く用いない航空機の雷爆撃のみの攻撃という図らずも大艦巨砲主義と航空主兵論の純然たる対決にはこの上ない設定となったマレー沖海戦であったが、結果は日本側の損害が九六陸攻1、一式陸攻2の損失に対し、英側は最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと
巡洋戦艦レパルスの沈没という日本側の圧勝に終わった。それは大艦巨砲主義の終焉を告げると同時に主力兵器としての航空機の攻撃力と有効性を実証し、その台頭の契機となったのである。
自由回避する戦艦を航空機のみの攻撃で撃沈した点で、マレー沖海戦より先に航空主兵の新興を示唆したイギリスの航空機の雷撃と艦隊による砲撃、雷撃の総攻撃によってドイツ戦艦ビスマルクを撃沈したライン演習作戦(昭和16年=1941年5月北大西洋方面)や航空母艦と航空機の画期的運用によりアメリカの停泊艦船を多数撃沈した日本海軍による真珠湾攻撃(昭和16年=1941年12月ハワイ)よりも航空機に対する艦船の脆弱性をより明確に実証したと言える。

これがどれだけの衝撃を世界に与えたのか。イギリス首相チャーチルの言葉で本稿を締めたいと思う。
「私が書類箱を開けていると、寝台の電話が鳴った。軍令部長からだ。変な声だった。咳をしているようでもあり、こみ上げてくるものを堪えているようでもあり、初めはよく聞き取れなかった。
『首相。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが、どちらも日本軍の飛行機に沈められましたことを報告しなければなりません。トム・フィリップス(英東洋艦隊司令長官)は戦死しました』
『間違いないか』、『疑う余地はありません』。私は受話器をおいた。私は一人であったことを感謝している。戦争で、私はこれ以上のショックを受けたことはなかった。」


マレー沖海戦データ
年月日 : 昭和16年(1941年)12月10日
(現地時間東京標準マイナス1時間)
海戦地域: マレー半島東方沖
参加兵力:
日本海軍
中攻93機(九六式陸攻67機、一式陸攻26機)
イギリス海軍
戦艦1隻(プリンス・オブ・ウェールズ)
巡洋戦艦1隻(レパルス)
駆逐艦4隻(エレクトラ、エキスプレス、バンパイア、テネドス)
海戦生起への概況:
マレー半島各要地に上陸した日本軍を支援する輸送船団撃滅のため、最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズを旗艦とする英東洋艦隊が出撃(シンガポールから北上)。ただし、シンガポール防衛を第一とする空軍との調整が不調に終わり護衛の戦闘機を付けることができないままであった。
日本にとっては、攻撃能力でこれに対抗できる艦隊はマレー方面に展開しておらず、事態を事前予測した山本五十六連合艦隊司令長官の戦略により派遣された中攻隊に敵の強力な艦隊の進撃阻止が委ねられる。
一方、進撃中の英東洋艦隊は、情報を総合的に検討した結果、日本の輸送船団との会敵が困難と判断。南下してシンガポールへ帰港途中に中攻隊とマレー半島東方沖で交戦することになる。
結果(損害)
日本海軍
中攻3機喪失(九六式陸攻1機、一式陸攻2機)
イギリス海軍
戦艦1隻沈没(プリンス・オブ・ウェールズ)
巡洋戦艦1隻沈没(レパルス)

参考文献:
 中攻会編『海軍中攻史話集』(非売品、1980年)
 豊田穣 『マレー沖海戦』(講談社、1982年)
 福田誠編『第二次大戦海戦事典』(KOEI、1998年)
 <[歴史群像]太平洋戦史シリーズVol,2>『大捷マレー沖海戦』(学研、2000年)
 Yahoo!辞書(http://dic.yahoo.co.jp/)

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