特に日本海軍においては、日本海海戦の圧勝が絶対視されてしまい、一海面における決戦に全てをかける戦術至上主義に陥り、第一次世界大戦のような長期戦に対する戦略的思想が醸成されにくい硬直化した組織となってしまいます。日本海海戦直後の海軍大学校(最高の幹部養成機関)の教官も生徒も日本海海戦経験者が中心で、日本海海戦を完全無欠のお手本として大艦巨砲主義と戦術至上主義を学ぶのですから、結果として、そういった思想に凝り固まった士官がアジア・太平洋戦争に敗れるまで組織の上層の大半を占めていくことになってしまうのは想像に難くないでしょう。
この思想は、マレー沖海戦で主力艦に対する航空戦力の圧倒的な優位性が中攻隊によって実証されるまで、世界で長く支持されてきました。
皮肉なことに、航空戦力の有用性を世界に先駆けて明示した海軍が、時代遅れとなった大艦巨砲主義から完全に脱却しきれずに逸早く転換を進めた米英に後のアジア・太平洋戦争において敗北を喫することになってしまうのです。
お話を第一次世界大戦後に戻します。
当時、最新最強の海軍力とされていた主力艦の配備を充実させるため、世界の列強国は大建艦競争を繰り広げていました。
仮想敵国アメリカと日本の1920年(大正9年)の国家予算における軍事費の割合を見てみましょう。
その年のアメリカの国家予算に占める軍事費の割合は37.1%、同様に日本では47.8%でした。
さらに踏み込んでみると、国家予算が約15億の1920年(大正8年)に竣工した戦艦長門は約4390万円したのです。
当然、その後の維持管理経費も考えなければなりません。
そもそも1921年(大正10年)のGNP比で日本の9.7倍もあるアメリカの7割も主力艦を保有しようとすること自体、国策として相当な無理があることです。また、当時は大戦景気が終了し、不況であったことも忘れてはならないでしょう。
このような軍備最優先の国家経営を継続していては、財政破綻や国際関係の悪化を招いてしまうのは明白です。
日本がそのような無謀ともいえる建艦を行っていた背景には、国防上、海軍軍備を仮想敵国であるアメリカの70%保有しなけければ、艦隊決戦において勝利できないという いわゆる「対米7割」という理論がありました。そこでいわれる7割という数字は、世界の大艦巨砲主義を理論面で強固に支えていたマハンの戦術理論※3を踏まえて、秋山真之※4や佐藤鉄太郎※5が研究して設定されたものといわれています。
簡単に説明しますと、防御側の戦力を1とすると攻撃側は1.5倍の戦力が必要で、
これを攻撃側(アメリカ)を1に置き換えると防御側(日本)は0.67≒7割となるというものです。
しかしながら、大建艦競争で苦しんでいたのは、日本だけではありませんでした。
前述のとおり、大艦巨砲主義は世界中で支持されていたため、列強全てが財政難に喘いでいたのです。そこで各国が利害を一致させ開催されたのが、1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮会議でした。
翌年結ばれたワシントン海軍軍縮条約では、日本の主力艦艇(戦艦、大型空母など)の保有比率が対米比の6割とされました。
海軍内では「対米7割」を盾に反対があったものの、国家財政の破綻を危惧した加藤友三郎海相の英断と統率力によって条約締結に至りました。
この会議は世界で初めて話し合いで軍縮を行ったものとして画期的な出来事でもありました。
主力艦の保有率が対米比の6割とされた結果、海軍内に従来から存在していた「事前漸減」という戦術が俄然クローズアップされてきます。
事前漸減とは、アメリカ艦隊が日本に侵攻してきた場合、日本近海での戦艦を主力とした艦隊決戦の前に、航空機、空母や補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)によって、事前に敵主力に損害を与え漸減することで、両軍の勢力比に大差のないところまで近づけるというものです。
このシナリオはあくまでも大艦巨砲主義に基づく主力艦隊の決戦を前提に組み立てられており、航空機はじめ他の兵力は全て数的劣勢を補うための補助と考えられていました。ところが、それに異を唱えるグループが少数ながら海軍には存在していました。
山本五十六※6をはじめとする航空主兵論者です。
事前漸減が前提とはいえ、主力艦対主力艦の決戦、即ち相似型の軍備では、机上や艦隊演習においてさえも数が多い方が勝つことは当時でも明らかでした。
戦争潜在能力(工業力、GNP、鉄鋼生産量、造船量など)で全く適わない相手と同じ軍備を推進するのではなく、軍縮条約の制限外且つ主力艦よりも生産コストが安く、遠距離から優速で接敵して雷撃と爆撃で主力艦隊を制圧できる航空機こそが主力兵器であり、海軍の目指す軍備であると主張するグループです。
しかし、大艦巨砲主義が大半を占める海軍においては、航空機はあくまでも補助兵力として事前漸減は進められましたので、航空主兵論が少数派ながらも無視できない勢力となるのは少し後になります。
ワシントン海軍軍縮条約締結後は、戦艦の建造は停止したものの、条約制限内ギリギリでの重武装と高速化、そして世界最大の61センチ魚雷搭載を可能としたを妙高型大型巡洋艦や、ドイツのUボートの技術を導入し航続距離4万4450キロに達した伊号潜水艦の建造が実施され、1921年(大正10年)から1930年(昭和5年)まで巡洋艦、駆逐艦、潜水艦の建造ペースは衰えることなく続けられました。
1930年(昭和5年)には対米比において巡洋艦はほぼ同数、潜水艦は9割の保有量に達します。このようなことからも航空機が主力ではなく、依然として艦船を中心とした戦備を実施していることがわかります。
ところが、事前漸減のシナリオを大幅に見直さざるを得ない出来事が発生しました。
ロンドン海軍軍縮条約の締結です。
1929年(昭和4年)の世界恐慌の影響が極めて深刻なことと、ワシントン海軍軍縮条約では不十分であった補助艦建造抑制の必要から、1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約が締結されました。
これは主として補助艦艇(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、基準排水量1万トン以下空母など)の保有を制限するものでした。
具体的には、大型巡洋艦は対米比で約6割、潜水艦は日米同保有量となったものの、現有から32%を削減することになり、総合すると日本の補助艦艇の保有率は対米比で約7割(厳密には6.975)となりました。
実質的には日本の保有する新型艦艇はほぼ制限内に納まるものでしたが、
事前漸減において大きな役割を果たすため個艦性能の向上と生産に注力してきた補助艦戦備の道が将来的に非常に険しくなったことを意味し、海軍は一層の危機感を強めます。
事前漸減の修正を迫られた海軍は、補助艦の更なる個艦性能の向上へと向かいますが、攻撃力を偏重した物理的に無理な設計を強いた艦船は友鶴事件※7や第四艦隊事件※8という
事故を惹起し、頓挫してしまいます。
そういった中で軍縮条約の制限外で生産コストが安く、徐々にその攻撃力が脚光を浴び始めていた航空戦力の増強に傾注していくのです。
中でも、空母を必要とせず、島など無数にある陸地を利用して陸上から飛翔し、長大な距離を航行して雷撃及び爆撃ができる陸上攻撃機の兵器としての有用性と戦略的重要性に大いに注目と期待が航空主兵論者から集まり、ここに陸攻の開発が萌芽するのです。
※1 |
1905年(明治38年)5月27日から翌日にかけて行われた日露戦争中最大の海戦。日本海対馬沖で、東郷平八郎司令長官の率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊に壊滅的打撃を与えた。 |
※2 |
1916年(大正5年)5月31日から6月1日にかけて、デンマーク本土ユトランド半島沖の北海でイギリス海軍とドイツ海軍が交戦。イギリスは巡洋戦艦3隻と補助艦艇11隻、ドイツは旧式戦艦1隻巡洋戦艦1隻と補助艦艇9隻を喪失した。イギリスの戦死者は6094人、ドイツは2551人だった。被った損害はイギリスの方が大きかったが、この海戦以後ドイツ艦隊が本国の軍港に釘付けになったことから、戦略的にはイギリスの、戦術的にはドイツの勝利といわれている。
特筆すべきは、イギリスの最新鋭巡洋戦艦クイーンメリーが数発の12インチ砲弾で轟沈したことである。
これは速度を重視するため装甲を軽くすることの危険性と、近距離から多数の砲弾を命中させるのではなく、遠距離から少数の巨弾を命中させることの有効性を実証し、その後の建艦競争は、一層の重装甲と巨砲の搭載へと進むことになった。 |
※3 |
アルフレッド・セイヤー・マハン、1840年〜1914年、アメリカ海軍軍人(少将)。アメリカ海軍大学教官・校長として海軍史を講義。
主著「海上権力史論」において「シーパワー」の概念を提唱、列強の海軍戦略に多大な影響を与えた。 |
※4 |
1868年(明治元年)愛媛県の松山に生まれる。1918年(大正7年)没。1866年(明治19年)海軍兵学校に入学し、首席で卒業(第17期)。日本海海戦では、作戦主任参謀を務め、東郷平八郎率いる艦隊を実質的に指揮し、勝利に導く。 |
※5 |
1866年(慶応2年)山形県の鶴岡に生まれる。1942年(昭和17年)没。海軍兵学校第14期卒業。日本海海戦において対馬沖待機を主張し海戦を有利に導いた。また、海戦中も敵の舵の故障を見抜いて機を逃さず攻撃を実施するなど勝利に貢献。 |
※6 |
1884年(明治17年)新潟県の長岡に生まれる。海軍兵学校第32期卒業。1943年(昭和18年)4月18日に前線部隊激励に向かうため一式陸攻に搭乗中、ブーゲンビル島上空でアメリカのP38戦闘機16機により攻撃を受け戦死。当時の欧米事情に詳しく、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対した。航空機戦力に早期から着目し、海軍航空隊設立に尽力。
日米開戦が開始されると「短期決戦・早期和平」という日米間における国力の差を冷静に分析した現実的な作戦計画を実施しようとした。海軍軍人の中でも傑出した名将としての評価は今日でも高く、敵であったアメリカ側からも賞賛する意見が多い。 |
※7 |
1934年(昭和9年)3月12日に佐世保港外において同年2月に竣工したばかりの千鳥型水雷艇3番艦「友鶴」が水雷戦隊の演習中に波浪により転覆。600トンに満たない水雷艇に復元力を犠牲にして1000トン級並みの過大な性能を求めたことが原因で発生。 |
※8 |
1935年(昭和10年)9月26日に日本海軍で起こった大規模海難事故。空母2隻、巡洋艦2隻、駆逐艦6隻、潜水母艦1隻が損傷、殉職者54名を出した。重装備且つ軽量化という技術的無理を冒した設計による艦体の強度不足が原因。前年に発生した友鶴事件と共に後の海軍艦艇の設計に大きな影響を与えた。 |
なお、本稿の記述にあたり、山田朗著『軍備拡張の近代史』(吉川弘文館、1997年)が非常に有益でありました。
世界の中の日本という視点で客観的データを用いて日本陸海軍と列強を比較しながら、
どのように日本が軍拡を進めてきたか詳しく解説されています。
もちろん中攻に関しての論述もあり、お薦めです。ご一読される価値はあると思います。
<参考文献>
山田朗『戦争<2>近代戦争の兵器と思想動員』(青木書店、2006年)
山田朗『軍備拡張の近代史』(吉川弘文館、1997年)
海空会『海鷲の航跡』(原書房、1982年)
中攻会『中攻会史話集』(中攻会、1980年)
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