みなさんこんにちは。私は、中攻搭乗員の方々への取材を中心に日本海軍の航空作戦の実態や搭乗員の思想を研究しています鬼頭佳嗣と申します。今回、思いかけず寄稿の依頼を受け、筆を執らせていただくことになりました。
 
 突然ですが、「中攻」をご存知ですか?南京渡洋爆撃、重慶爆撃、マレー沖海戦・・・これらは世界の航空戦史において特筆すべき出来事なのですが、その全てにおいて主役となったのが「中攻」なのです。
日中戦争、アジア・太平洋戦争※1全期間を通じて日本海軍の打撃的攻撃力の主力を担い、爆撃、魚雷攻撃(以下雷撃とします)、
索敵(敵が攻撃可能圏内いることを前提に探す)、哨戒(見張り)、輸送など万能機として活躍した「中攻」の歴史を初めての方にもわかるようにお話をしていきたいと思います。

 まず、なぜ「中攻」と言うのかということから始めたいと思います。
 日本海軍の航空機は、攻撃機、戦闘機、爆撃機、偵察機などその用途に合わせて機種に分類されていました。例えば、「ゼロ戦」の通称で有名な零式艦上戦闘機(以下零戦とします)は、名前の如く戦闘機になります。
また、その機種分類において、日本海軍の場合は急降下爆撃ができないと爆撃機に位置付けませんでしたので、世界的に見ていわゆる爆撃機という用途を十分果たすものでも攻撃機として分類されました。それは性能標準※2を見ると明らかです。
 
 機種の前には、艦船から飛び立つのか、陸上から飛び立つのかが記されました。従って、陸上から飛び立つ攻撃機は陸上攻撃機となり、「陸攻」と略します。陸攻の中でも、日中戦争とアジア・太平洋戦争において圧倒的な生産数と実績があったのが中型陸上攻撃機でした。略して「中攻」です。
大型陸上攻撃機も存在していましたが(「大攻」と略します)、中攻と比べて生産数、実戦での使用ともに極めて少ないものでした。

具体的には「九六式陸上攻撃機」と「一式陸上攻撃機」が該当します。
 ちなみに語頭に付いている「九六式」、「一式」は、海軍機として制式化した年の皇紀※3の下二桁を付したものです。九六式陸攻は皇紀2596年(昭和11年、1936年)に、一式陸攻は皇紀2601年(昭和16年、1941年)に制式化されました。
九六式陸上攻撃機
一式陸上攻撃機

 また、昭和18年7月28日官房機密第149号が出されて以降は、制式化されると、攻撃機の場合は山岳に基づく語が標準名称として付けられました。例えば「連山」(大攻)、「深山」(大攻)です。戦闘機は、気象に基づく語が付けられたので、「雷電」や「紫電」、「烈風」などは耳にされたことがあるかもしれません。

 参考ですが、試作段階での名称には元号が用いられました。九六式陸上攻撃機は九試中型陸上攻撃機、一式陸上攻撃機は十二試中型陸上攻撃機と呼ばれていました。

 少し話が逸れてしまいましたが、先述のとおり生産数と実績から、戦時中は陸攻よりも中攻という呼び名の方が一般的でした。それは戦後の中攻関係者の戦友会が「陸攻会」ではなく、「中攻会」ということでもおわかりいただけるかと思いますし、私の取材経験からも、搭乗員の方々からは陸攻よりも中攻の方が言葉として多く使用されます。

 中攻の表記についておわかりいただけたでしょうか。

 次回は、中攻の誕生についてお話致します。



※1 「支那事変」、「大東亜戦争」など先の大戦について複数の名称が使用されていますが、戦友会会員の
    友好だけではなく、老若男女幅広い対象の方に中攻を知っていただき、その存在や実績、英霊をはじ
    めとした関係者の思いを後世に継承していくために、教科書や新聞などで一般的に使用されて
    いる「日中戦争」、「アジア・太平洋戦争」(昭和16年(1941年)12月8日以降について)
    という表記を本稿では使用します。。

※2 海軍が航空機メーカーに新型機の製作を発注する際の仕様書のこと。

※3 日本書紀の記述により、神武天皇即位の年(西暦紀元前六六〇年にあたる)を元年とする紀元のこと。
鬼頭佳嗣:歴史研究家。
日本海軍の航空作戦の実態や搭乗員の思想研究が専門。
中でも南京渡洋爆撃、重慶爆撃、マレー沖海戦など世界の航空史において画期的な事例を築き上げた中攻に高い歴史的価値を覚え、中攻搭乗員の方々へのアンケート実施と取材によるフィールドワーク的な手法での研究を行っている。
アンケートでは141名の貴重な実戦データを保有、インタビューは延べ40名を越え、現在も取材は継続中。

幅広い階級の方々へのアンケートによる数値データとインタビューにより描かれる「中攻」とはどんなものなのか?。
出版の暁には、当ページでもお知らせする予定です。(坂)

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